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    <title>出張/猿まわしは周防猿まわしの会</title>
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    <updated>2012-01-31T01:58:41Z</updated>
    <subtitle>周防(すおう)猿まわしの会が山口県光市の無形民俗文化財に指定されました。周防猿まわしの会の猿回し芸は、全国どこでも出張公演承ります。</subtitle>
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    <title>第二十三話　チャンスの時にピンチあり</title>
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    <published>2012-01-31T01:54:44Z</published>
    <updated>2012-01-31T01:58:41Z</updated>

    <summary>チョロ松物語　第二十三話。更新日：2012年1月31日</summary>
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        <name>猿まわし劇場</name>
        
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        <category term="エッセイ＆インタビュー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[　阿蘇猿まわし劇場はオープン前の予想をはるかにくつがえす快進撃を続けた。親父の目標では3月26日から6月下旬までに5万人の入場者数と見込んでいたのがオープンして2ヶ月足らずの5月29日に達成。入場者7万人も6月25日に突破した。夏休みに入った8月3日には10万人目のお客様に来場いただき、8月20日には一日の総入場者数としてはオープン以来最高の3090人、初めての大入り袋（阿蘇猿まわし劇場は3000人以上の入場者で大入りとした。）が出た。<br /><br />

　8月27日には3811 人と大入りの記録を塗りかえていく。
そんな記録ずくめのおめでたい日にお客様が訪ねてきた。石川県金沢市でイベント会社を経営する昭和企画株式会社北陸支社社長の千代晃久（せんだい　あきひさ）さんという方である。千代さんと周防猿まわしの会のお付き合いが始まったのは、まだ千代さんが愛知県の昭和企画株式会社名古屋本社にいらっしゃる頃である。私とはチョロ松とコンビを組んで間もない頃、名古屋市内でのショッピンッグセンターでのイベントに呼んで下さったのが最初の出会いだった。それ以前にも他のコンビには数回仕事をいただいていたが、初めてチョロ松を呼んでくれた時から大変気に入っていただけた。千代さんは「チョロ松・五郎コンビは、今まで見てきた他のコンビにはない芸の力強さがある。俺はチョロ松が有名であろうが無名であろうが関係ない。チョロ松の芸に惚れたからこれからはチョロ松をしっかり売っていくからな。」と言われ、その言葉通り温かく見守ってくださり、 時にはお客様目線での厳しいアドバイスもあり、チョロ松・五郎コンビを育ててくれた大恩人と思っている。<br /><br />

　そんな千代さんが家族揃って遠い石川県から熊本県の阿蘇の地まで表敬訪問してきてくれた日が、大入り入場者新記録の日でもあり、千代さん家族が到着するなり、親父さんみずから阿蘇猿まわし劇場の施設を案内し、「五郎は稽古をやっておけ、夕方来ればいいから。千代さんは俺に任せろ。」と気にする私をはねのけて、阿蘇の秘湯温泉にお誘いして大歓迎した。しかし、その2時間後に大変な事が起きた。「親父が温泉で倒れた」とお袋から劇場に一報が入った。親父は当時55歳、その日も午前中若手の調教師に引けを取らないぐらい迫力ある舞台を演じていたので信じられなかった。搬送先の病院に駆けつけたときには意識も戻っていたので安心した。原因は「脳血栓」である。今回は何とか一命をとりとめた。次に発症したら命の保障はないと最後通告ともとれるような医師からの厳しい診断であったが、そんな警告すら動揺するような親父ではない。命にも関わる病気だけに今回だけはオープン以来の疲れを癒すいいチャンスと思って十分休養してほしかったが、親父はじっとしていられなかったのか、 一ヶ月後には復帰してきた。<br /><br />

　チャンスの時と誰しも勢いに乗っていたときピンチの影が忍び寄っていた。さらなる災難がチョロ松と私に襲いかかる。9月下旬、広島県の「海と島の博覧会」のイベントに出演していた。公演前のリハーサルでチョロ松の動きがおかしいことに気付く。チョロ松が左手を使うことをすごく拒否するのだ。その時は目立った外傷なく無難に舞台をこなしてくれたが、翌日の朝になると左手の人差し指が腫れ上がり、思った通りの芸が出来ないまま舞台を終了した。すぐに近くの動物病院に行きレントゲンを撮ってもらったところ、人差し指の第二関節から骨がないと診断された。広島から帰京して当時の主治医の先生に診てもらったところ病名は「骨髄炎」であった。早急な手術が必要だということで、事情を説明してチョロ松指名のイベント出演を他のコンビに差し替えてもらい緊急手術をおこなった。第二関節から指を切断せざるおえなく引退という最悪の事態も頭をよぎった。幸いにして他への転移もなく手術後から2 週間のちにはいつものチョロ松らしさを取り戻し仕事に復帰することができた。野生の生命力や回復力はたいしたものであるが、手術後麻酔が切れ、自分の人差し指がないことに気付いたチョロ松はすごく悲しそうな表情をしていた。もう少し早く異変に気付いてあげられたらと後悔している。<br /><br />

 　阿蘇猿まわし劇場がオープンして約7ヶ月の10月23日、年間目標としていた20万人の入場者数を記録した。目標より5ヶ月も早い達成だった。]]>
        
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    <title>福岡市にあるショッピングセンターへ新春出張公演に行って来ました。</title>
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    <published>2012-01-04T05:51:45Z</published>
    <updated>2012-01-04T08:38:57Z</updated>

    <summary>本当にたくさんのお客様がご来店して下さり、笑いあり、感動あり、ハプニングあり？の連続で、僕がハラハラドキドキの舞台でした。</summary>
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        <name>阿蘇猿まわし劇場</name>
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        <category term="新・猿まわし通信" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.suo.co.jp/">
        <![CDATA[1月3日福岡市にあるショッピングセンターへ新春出張公演に行って来ました。
有り難いことに二年連続で呼んで下さいまして、福岡市内の大型ショッピングセンターということで、本当にたくさんのお客様がご来店して下さり、笑いあり、感動あり、ハプニングあり？の連続で、僕がハラハラドキドキの舞台でした。
店内は買い物を楽しまれるご家族で溢れておりました。
その昔お正月に猿まわしを観ると一年病気や事故をしないと言われておりました。皆さんまた一年健康に過ごして、猿まわしを観に来て下さい。<br />
<img alt="くり松.jpg" src="http://www.aso-osaru.com/images/p/diary/2012/20120103aso.jpg" width="500" height="375" /><br /><br />]]>
        
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    <title>福之助・笑コンビお正月イベントに出演しました！</title>
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    <published>2012-01-03T07:29:31Z</published>
    <updated>2012-01-04T07:01:22Z</updated>

    <summary>新年早々、福之助・笑コンビは熊本にあるショッピングセンターにて、お正月イベントに出演してきました。</summary>
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        <name>阿蘇猿まわし劇場</name>
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        <![CDATA[新年早々、福之助・笑コンビは熊本にあるショッピングセンターにて、お正月イベントに出演してきました。<br />
到着すると、開店前から長い行列ができていました。<br />開店と同時に足早に店内に駆け込む流れの先にはなんと、福袋がありました。朝早くから沢山のお客様で年内はとても賑わっていました。そんな中、11:00の1回目の猿まわし公演にも150人ぐらいのお客様が集まって下さいました。お昼になると更にお客様も増え、2回目の公演は倍の人数集まって下さいました。<br />2階からも沢山のお客様に見ていただきました。<br />
外のお仕事に出るのは初めての福之助は最初は緊張気味。<br />いつもの調子がなかなかでなかったのですが、お客様の応援にどんどん調子が上がり、可愛いお遊戯芸や玉乗りやダイナミックなジャンプ芸も大成功でした。福之助が大技を決めると子供達の驚いた表情と大歓声でした。<br /><br />
<img alt="福之助・笑.jpg" src="http://www.aso-osaru.com/images/p/diary/2012/20120101aso2.jpg" width="500" height="375" /><br /><br />
新しい年を迎え、福之助・笑コンビは良いスタートを切れました。<br />更に飛躍できるように、一生懸命頑張っていきます。今年もどうぞ宜しくお願いします。
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    <title>お正月熊本にあるショッピングセンターにいってきました。</title>
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    <published>2012-01-03T00:32:34Z</published>
    <updated>2012-01-04T07:01:42Z</updated>

    <summary>猿まわしにて初笑い！</summary>
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        <![CDATA[猿まわしにて初笑い！<br /><br />
熊本にあるショッピングセンターに1月2日小次郎・武蔵コンビが行ってきました。<br />
小次郎くんの大ボケに集まったお客様は大笑い！<br />
お正月の初笑いを楽しんでいただけました。<br /><br />
<img alt="小次郎竹馬.jpg" src="http://www.aso-osaru.com/images/p/diary/2012/20120102aso2.jpg" width="500" height="375" /><br /><br />]]>
        
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    <title>お正月も勘平君、エンジン全開！</title>
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    <published>2012-01-02T23:53:01Z</published>
    <updated>2012-01-04T07:02:08Z</updated>

    <summary>2012年1月2日、福岡県大牟田にあるショッピングセンターに勘平・新八コンビが初売りイベント猿まわし公演に出演してきました。</summary>
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        <![CDATA[2012年1月2日、福岡県大牟田にあるショッピングセンターに勘平・新八コンビが初売りイベント猿まわし公演に出演してきました。<br />昨年3月にグランドオープンしたばかりの大型店舗には、お年玉で買い物したのか子供たちは嬉しそうに買い物袋抱えて歩いている姿がたくさん見られました。<br />広い店内も次から次へご来店のお客様で、通路歩くのも大変そうでした。<br />勘平と新八コンビの公演もセンターコート特設ステージにはたくさんの人だかりが出来ていました。<br />2階通路からもガラス張りで下が見えるので、100名くらいのお客様がそこから勘平君にいっぱい応援してくれていました。<br />ステージ前に並んでいる子供たちは、目をキラキラさせて勘平君のひとつひとつの動きに笑顔いっぱいに反応していました。<br />1回目の公演終わり、休憩していましたら、ご近所から来た親子連れのお客様が、「子供達が、勘平君の2回目のショーを絶対見て帰ると聞かないんですけど、どうしても午後は用事があるから、代わりに、春休みに猿まわし劇場に必ず行くと約
束させられました…」とお母さんちょっと苦笑い。<br />子供さん達は「阿蘇に行くからねー」と嬉しそうに手を振っていかれました。
<br /><br />
<img alt="お正月も勘平君、エンジン全開！" src="http://www.aso-osaru.com/images/p/diary/2012/20120102aso.jpg" width="500" height="375" /><br /><br />]]>
        
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    <title>開店前から大行列！</title>
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    <published>2012-01-02T23:31:51Z</published>
    <updated>2012-01-04T07:00:54Z</updated>

    <summary>平成24年元旦、熊本にある大型ショッピングモールの初売りイベントに勘平・新八コンビが出演しました。</summary>
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        <name>阿蘇猿まわし劇場</name>
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        <![CDATA[平成24年元旦、熊本にある大型ショッピングモールの初売りイベントに勘平・新八コンビが出演しました。朝から時々小雨がバラパラと…。<br />8:30頃到着すると、大きな建物一周以上の長蛇の列に驚きました。<br />千人以上のお客様がお気に入りの福袋をゲットするために朝早くから並んでいたそうです。<br />勘平君の出番は11:30と15:00の2回公演です。<br />開演30分前から数組のご家族が一番前の特等席陣取って楽しみに待ってくれていました。11時開演前には座る場所いっぱいで立見のお客様がステージ覆いつくしていました。<br />太鼓に合わせ会場に響くお手拍子、大技芸ではたくさんのちびっ子達から「勘平?、がんばれ?！」の大声援。期待に応え勘平も見事大技を決めてくれました。<br />公演終わり、控室に戻るとイベントスタッフの方が「勘平君の芸に仕事忘れてました。完全に楽しんでしまいました。」とお褒め(？)のお言葉もらいました。<br /><br />お正月元旦に、皆様にしっかり初笑いしてもらいました。<br /><br />
<img alt="初売りイベント.jpg" src="http://www.aso-osaru.com/images/p/diary/2012/20120101aso.jpg" width="500" height="281" /><br /><br />
2012年1月1日<br /><br />
]]>
        
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    <title>第二十二話　親父がつないだ縁</title>
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    <published>2011-12-30T22:13:00Z</published>
    <updated>2012-01-01T22:29:20Z</updated>

    <summary>チョロ松物語　第二十二話。更新日：2011年12月31日</summary>
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        <name>猿まわし劇場</name>
        
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        <category term="エッセイ＆インタビュー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.suo.co.jp/">
        <![CDATA[　私がまだ周防猿まわしの会に入門する前の大学1年生夏の話しにさかのぼるが、本社（山口県光市）の親父の元へ、突然一本の電話がはいった。「日本体育大学の教授をやっている山田良樹と言いますが、村崎義正さんはいらっしゃいますか。」親父は即座に日体大に在籍する息子の私が問題を起こしたのではないかと思い、電話に出るなり「息子が何かしでかしましたか」と答えたが、山田教授は私のことで電話したのでなく、村崎義正本人に電話してきたのだ。ちんぷんかんぷんの電話だった。それもそのはず、山田教授からすると村崎義正の息子が日体大へ行っているとは知らずに電話したわけだから会話も噛み合うわけもなかった。<br />
　山田教授は私たちと同郷で山口県周防大島出身である。当時日本体育大学で体育経営管理学を研究し学部長も兼任されていた。現在は日本体育大学名誉教授を勤められている。
ある日、日体大の職員から「先生の故郷の山口県で、猿まわしを復活させた村崎義正さんが書かれた本『猿まわし復活　調教とその方法』を見つけました。面白い本なのでよかったら読んでみてください。」と進められたのが村崎義正を知るきっかけになった。読んだ瞬間一目ぼれしたらしく、これはすぐに会いに行かなければいけないということで本社（山口県）への突然の電話だった。二人は会うなり意気投合し、親父の持つ「日本猿の調教論」「人間の教育論（子育て）」に山田教授は深く興味を持ってくださった。人間教育に不足している厳しさ、やさしさ、毅然とした姿勢が猿まわしの調教にあり、これを大学生に伝えたい、そう思ってくださった。日体大の特別講師として村崎義正を招き学生と喧々諤々の交流を重ねたのはもちろん、周防猿まわしの会の応援団として大学関係の学園祭や地方のお祭りに紹介してくださった。また、私が日本体育大学を卒業するまで親代わりのようにご指導いただき、山田教授のおかげで卒業出来たと言っても過言ではないほど迷惑をお掛けした。「義正さんもお前の子育てには失敗したようだな。五番目で唯一親父にかわいがられた。甘くなった分、俺がたたきなおしてやる。」山田先生の口癖だった。大学3年以降、チョロ松がSONYのCMでブレイクした時には大学と仕事を両立させるために午前中授業に出席して午後から地方等のイベント出演にしなければいけないこともあり、そんな時は山田教授のはからいでチョロ松をのせた営業車を大学敷地内の安全な場所に駐車させてもらったこともありました。<br />
　山田教授の縁で普通なかなか会えない人物を紹介され、かわいがってもらいました。当時の日体大の綿井永寿学長や、山口県出身、レスリングで東京オリンピック金メダリストの花原勉教授（現在、日本体育大学名誉教授）にも眼をかけていただき、卒業の際には「日本を代表する周防猿まわしの会の芸能の発展のためにしっかり頑張れよ。」と激励の言葉をいただいた。九州方面に出張した機会にわざわざ熊本県の阿蘇猿まわし劇場まで足を伸ばして下さった時の感激は忘れられない。同級生からはいまだに卒業式に出席していなかったとからかわれるが、間違いなく日本体育大学卒業式に出席し万感の思いを抱いて学び舎を後にした。<br /><br />

　そしてついに、猿まわし千年の悲願が実現する日がやってきた。1989年（平成元年）3月26日、日本の観光地を代表する阿蘇山の麓に655名収容の「阿蘇お猿の里・猿まわし劇場」がオープンした。当日は全国各地の猿まわしのファンや復活以来応援いただいているたくさんの知人・友人もお祝いに駆けつけてくださり盛大に式典も行われた。チョロ松・五郎コンビも初舞台に立たせてもらったが、本当にすみません、どんな舞台だったのか記憶がほとんどありません。ただ、広い敷地にそびえたつ劇場の勇姿を見てこれから猿まわしの芸能はどんなに発展をしていくのだろうと胸が躍るような気持ちで夢を描いていた反面、正直23歳の私には数億円投資した借金を返していけるのかという不安ばかりが先に立った。しかし親父からは「まず年間20万人の安定した入場者を確保することができれば猿まわしの芸能も磐石である。そして劇場以外の施設もさらに充実することができ、頑張ってくれているお猿さんや芸人たち、そして支えてくれるスタッフに生活を保障してあげることができる。」と高笑いしながらうれしそうな笑顔が返ってきたことが鮮明に浮かんでくるのだ。]]>
        
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    <title>ある小学校へ出張公演に行って来ました。</title>
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    <published>2011-12-22T06:56:26Z</published>
    <updated>2011-12-22T07:02:27Z</updated>

    <summary>ある小学校へ出張公演に行って来ました。</summary>
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        <name>猿まわし劇場</name>
        
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        <![CDATA[<img alt="201112js.jpg" src="http://www.fuji-osaru.com/images/p/diary/201112js.jpg" width="450" height="267" /><br /><br />

　こんにちは順平です。<br /><br />

　お久し振りです。先日、ある小学生の皆さんの集まりへ出張公演に行ってきました。幼稚園児から小学校低学年の子供たち、保護者の方々がたくさん応援して下さいました。はじめは少し肌寒い感じでしたが、段々皆からの応援と熱気で暖かくなってきました。皆の応援でQたろうも絶好調！イベントも大成功でした。片付けも皆さんで道具を運んでくれてとっても助かりました。<br /><br />

　また皆に力を頂きました。楽しかったです。また会いましょう！<br /><br />

2012年12月<br /><br />

提供：<a href="http://www.fuji-osaru.com/diary/201112js/">河口湖猿まわし劇場</a>]]>
        
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    <title>第二十一話　猿まわしを栄える女性達</title>
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    <published>2011-11-30T01:37:48Z</published>
    <updated>2011-11-30T02:00:11Z</updated>

    <summary>チョロ松物語　第二十一話。更新日：2011年11月30日</summary>
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        <name>猿まわし劇場</name>
        
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        <category term="エッセイ＆インタビュー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.suo.co.jp/">
        <![CDATA[　阿蘇猿まわし劇場の建設も順調に進み、1989年3月26日オープンが決まった。夏過ぎには最初の団体予約が入った。12月上旬には東京事務所のメンバーも阿蘇に集結し、劇場の建設状況を見てまわる。劇場の概容がはっきりしてきてオープンが現実味を帯びてきた。オープン後の綿密なスケジュールの打ち合わせも行われ、チョロ松・五郎コンビも一ヶ月交代のローテーションで出演することになった。<br /><br />

　そんな年の瀬のある日、阿蘇進出に尽力いただいた塚元議員が調教師志望の女性を連れてきた。本来であれば女性という時点でお断りをするのだが塚元議員の紹介ということもあり面接だけは受けたが、やはり野生のお猿さんと向き合うためには女性の腕力やスピードでは難しいし危険を伴う仕事なのでお断りをした。しかし、その女性はあきらめずに何度も親父のもとへ足を運んだので、その熱意に応え入門が認められた。当時を振り返ると本当に驚きだったが、親父に認めた理由を聞くと、「ほんのわずかな可能性に賭ける決心をした。その可能性とは師匠のアドバイスを素直に受けて頑張ればどんな困難でも突破できる。いささかでも我流になれば失敗するけど・・・。」女性が調教師を目指すという話題は阿蘇猿まわし劇場のオープンと重なりマスコミに大きく取り上げられ追い風になった。<br /><br />

　復活後、初の女性入門者ではあったが、実はその当時周防猿まわしの会には女性調教師がいた。重岡フジ子という人物である。昭和最後の猿まわしとして東京中心に活躍していたが、昭和38年に廃業する。<br /><br />

　昭和52年、周防猿まわしの会が復活事業を開始するも調教法がわからず暗礁にのりあげた時には、親父は重岡フジ子に協力をお願いし、アドバイスしていただいたことがきっかけとなり、親父が調教法を解明し、科学的に調教法を確立することにつながった。重岡フジ子がいなければ猿まわし復活は実現しなかったかもしれない。重岡フジ子の調教は本物であった。さらに調教法だけにとどまらず、猿まわし芸能の豊かな継承者であり、周防猿まわしの会の一員に加わっていただき、大きな花を咲かせてくださった。タナ捌き、バチ捌き、間の取り方、口上、唄、見事であった。我々が学んで、学びきれないほど豊かであり、柔らかい姿勢の中に揺らがない芯を持っておられたからこそ、女性であっても調教師になれることを実際にしめされた。女性が調教師を目指すというバトンは、その後十数人もの女性志願者のチャレンジによって受け継がれ、成果と挫折を重ねながら、現代版の重岡フジ子誕生への可能性を高めつつある。時代が産んだとも言える重岡フジ子再来は難しいけれど、女性達は必ず願いを叶えるに違いない。そして女性調教師の活躍は現在猿まわしの舞台に欠かせない存在となり猿まわしを支えている。<br /><br />

　重岡フジ子さんは2009年（平成21年）2月11日、78歳で亡くなられた。20年前の2月11日は、親父が病に伏した日でもあり不思議な巡り会わせを感じた。私の中に生きる重岡フジ子さんについてはあらためて皆様にお伝えしなければならない。<br /><br />

　1989年、阿蘇猿まわし劇場オープンの新年を迎えた。チョロ松と私は、元旦より兵庫県宝塚市の宝塚ファミリーランドの10日間のイベントに、動物マジックの第一人者でもあるジャック武田さんとご一緒させていただいた。ジャック武田さんは数十種類の動物を扱いながらのマジックショーを繰り広げる。その中にピンクパンサーの愛称で人気者であったチンパンジーがいて、刺激を受けたチョロ松は落ち着きをなくし、いつも以上に調整に苦労していた。<br /><br />

　そして、1月7日、日本に重大ニュースが報じられた。昭和天皇がご逝去されたのだ。翌日からの公演は全て中止になり、1月8日、「昭和」から「平成」と時代が変わった。]]>
        
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    <title>花尾八幡宮様の式年大祭にご招待いただきました。</title>
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    <published>2011-11-11T02:32:26Z</published>
    <updated>2011-11-11T03:00:19Z</updated>

    <summary>２５年に一度の式年大祭のお祝いに招待され、愛吉・源太コンビが出演しました。</summary>
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        <name>猿まわし劇場</name>
        
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        <category term="新・猿まわし通信" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.suo.co.jp/">
        <![CDATA[<img alt="花尾八幡宮1" src="http://www.suo.co.jp/images/p/50news/201111hanao-1.jpg" width="500" height="375" /><br /><br />

　秋晴れの山口県山口市、ここは周防猿まわしの会のお膝元になる島地にある花尾八幡宮。２５年に一度の式年大祭のお祝いに招待され、愛吉・源太コンビが出演しました。この八幡様は千三百年の歴史で七百年前に現在の地に再建される。豊かな周防の農村で、毛利氏の庇護を受けて、この地方の由緒あるお社として信仰を集めてきました。<br /><br />
 
<img alt="花尾八幡宮2" src="http://www.suo.co.jp/images/p/50news/201111hanao-2.jpg" width="480" height="600" /><br /><br />

　愛吉は長旅でしたが、得意芸を連発して、会場にあふれんばかりの人だかりの皆さんからやんやの喝さいをいただいた。お宮前の道路は詰めかける近隣からの車で渋滞、地元の皆様も祭りのにぎやかさに目を細めて喜ばれていました。一年がかりで準備し、周防猿まわしの会の出演を希望され熱心に招聘くださった氏子役員の皆様、本当にありがとうございました。<br /><br />
 
　この秋、ふるさとからの出演依頼が殺到して、やりくりが大変なほど。全国区で仕事をする我々を一番応援してくださること感謝してこれからもがんばります。]]>
        
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    <title>第二十話　チョロ松とともに歩む</title>
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    <published>2011-10-31T10:36:49Z</published>
    <updated>2011-10-31T10:40:25Z</updated>

    <summary>チョロ松物語　第二十話。更新日：2011年10月31日</summary>
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        <name>猿まわし劇場</name>
        
    </author>
    
        <category term="エッセイ＆インタビュー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.suo.co.jp/">
        <![CDATA[　覚えておられますか北海道静内町で撮影したSONYウォークマンＣＭ第二弾「草原編」は、第一弾に続き、全国のお茶の間を騒がせた。それは建設途上にある阿蘇猿まわし劇場にとっても追い風となった。来春のオープンにそなえ1988年7月1日付で九州事務所を開設し、団体予約の受付開始や観光関係組織への訪問説明など幅広く動き出した。そしてチョロ松と私の使命はもちろん劇場建設資金を稼ぐことであったが、横浜ドリームランド、奈良シルクロード博を中心に全国のお祭りイベントに出演し、夏休みの締めの仕事は前年に続き吉本興業の舞台に11日間出演させていただいた。しかも今回はリニューアルされたばかりのNGK（なんばグランド花月）である。吉本興業に所属する数千人の芸人といえども限られた芸人しかたてない狭き門である。まさしく笑いの殿堂でもあるNGKの舞台にチョロ松と立てたことは得がたい経験であったし光栄なことだと思っている。私にとって猿まわしは大学卒業までのお手伝いであったのだが、教育実習を終え、こうした経験を積み重ねる中で心境に変化が起きてきた。<br /><br />

　夏休みも終わりひと段落したところのこと、月に何度かの調教会がもたれた。東京事務所前の多摩川河川敷で、兄のＴ氏が指導役で東京在駐のメンバーが参加した。調教会ではチョロ松と私の関係性がテーマとなることが多かった。成猿でもあり、以前コンビを組んでいた調教師を辞めさせたチョロ松とどうつきあうかそれは私だけでなくみんなにとっても共有しなければならない大事な課題であった。学生でもある私にはそれまではチョロ松の芸を向上させていくというよりチョロ松の持っている芸を維持すればいいぐらいの考えしかなかったが、チョロ松と正面から向き合うようになった今では以前にも増してすごい勢いで私に歯を剥いてくるようになった。兄のT氏からは「歯を剥いてくることはお前をボスと認めてない。絶対服従させけじめをつけなければいけない」と指導を受けるが、調教会を重ねるごとに服従するどころかチョロ松の反抗はエスカレートした。チョロ松を力で抑え込もうとすれば力で跳ね返す。それこそ野生のプライドであり、それがないチョロ松では命さえながらえることはできない。とにかく目の前に厚い壁が立ちはだかったかのような苦しいときでもあったが、なんとかしたいと思うようになったことでようやく調教師としてのスタートラインについたのかもしれない。<br />
　荒れ狂う成猿とつきあう難しさと真剣に向き合うようになったころに、「五郎、野性の猿を制御するのに暴力は駄目。調教師が目に見えない力を身に付けるしかないんじゃ。それは何か、しっかりチョロ松に教えてもらえ。」って義正親父によく言われた。見えない力とは何でどうすれば身につくのか。チョロ松に服従を求める前に自己の非力によりきびしく対決していかなくてはならないと親父は言いたかったに違いない。<br /><br />

　阿蘇猿まわし劇場のオープンは舞台を支えるメンバーの数の確保と芸のレベルの向上が急がれる課題であった。親父の中では大学卒業後私が本格的に調教師としての道を歩むだろうと確信していた。さらに朗報だったのは2月に入門して半年しかたっていない村崎新八と小猿の勘平が順調に育っていること。周防猿まわしの会においては最も重要視される礼儀作法・立ち居振る舞いといった基本芸は当然のこと、輪抜け、竹馬、八艘飛びといった猿まわし十八番芸まで習得した。新八さんは、明るく人前でも物怖じしない舞台向きのキャラクターで、入門当時は兄のＴ氏が将来性をかい、テレビ番組にも紹介して、一番弟子として厚遇するようになっていた。それで、勘違いする新八さんでないことは後に、Ｔ氏が周防さるまわしの会から強引に独立活動を行った際にも、義正会長との約束を忘れず決断、行動したことで明らかである。そういうドラマがあろうなどとはこの時は思いもしなかったし、私としては入門当時の新八さんがどこを向いていようが関心がないというか、チョロ松と自分のことで精一杯だった。ただ、様々な重圧の中で会を動かしていた義正親父が「周防猿まわしの会が21世紀へ飛躍するための主役が増えた。」と喜んでいたことがうれしかった。
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    <title>第十九話　教育の壁</title>
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    <published>2011-09-29T17:47:31Z</published>
    <updated>2011-12-30T22:43:14Z</updated>

    <summary>チョロ松物語　第十九話。更新日：2011年9月30日</summary>
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        <name>猿まわし劇場</name>
        
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        <category term="エッセイ＆インタビュー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.suo.co.jp/">
        <![CDATA[　1988年6月下旬、2週間の教育実習を母校である浅江中学校で行う。その間、チョロ松は周防猿まわしの会本社の猿小屋で幼馴染のお猿さんたちとしばしの休息をとることができた。仲間のお猿さんたちと旧交を温める喜びにチョロ松は生き生きとしており教育実習で相方の私が居ないことなど全く気にしていなかった。とはいえ実習終了翌日には都内でのイベント出演もありその間もチョロ松との稽古等は欠かせなかった。早朝の稽古は１．５キロから２キロの基本的な散歩を、夕方は小劇場で舞台内容の反復稽古を行った。<br /><br />
 
　教育実習の指導を担当してくださったのは体育教師でもある山村進先生である。先生は陸上競技の指導者として幾多の人材を育成し世界の檜舞台でも活躍する選手を育てられたが、そんな素振りを一切感じさせない謙虚な方であった。山村先生が担任される１年１組を、授業は1年生?3年生をすべて担当させてもらった。初日早々山村先生から「村崎くん、今から３年生の授業があるから思うようにまずはやってみたらいい」と言われ驚いたが、威勢よくグラウンドに出て行くと生徒達はウォーミングアップをしていた。私たちの時代と変わらず授業の始まりは200ｍのグラウンドで体育委員を先頭に3周走るのだが、先頭から最後尾までまったくそろっていないバラバラの状態であった。その状態にいてもたってもおられず生徒達に即集合をかけ長々と説教を始めた。まだ、生徒のことを誰一人として知らないうちから自分の考えや思いをぶつけてしまい、完全に生徒は私に対して拒否反応をしめして心を閉ざしてしまったような気がするがそんなことにも気付かず突っ走った。担当だった1年1組のある女子生徒の存在が目に付いた。まだ1年生であるが大人に対して斜に構えてまっすぐに見ず私に対しても常に反抗的に接してきた。結局最後まで私はその女子生徒に対して何も対応しきれなかった。しかし野球部の指導に加わったときだけはわたしの様子を見て関心をもって質問してくる生徒もいて少しだけ自分らしさを伝えられたのではないかと思う。<br /><br />
 
　教師として生徒の前に立ってみるまではわからなかったが、実習に行ってみて思ったことは、様々な個性をもった生徒もいれば私には予想のつかない複雑な環境の中で育ってきた生徒もいる。そんな多種多様な生徒たちに何の信頼関係も築けてない私が生徒に接してしまうと生徒たちは心を閉ざしてしまう。私の描いた教師像は自分の考えや生き方をいい意味で押し付ける先生であったから、教師と生徒の信頼関係を2週間で築くことはできず時間だけはあっという間に過ぎていった。40数名の生徒ぐらい束ねることなど、なんていうことはないだろうという安易な考えはもろくも崩されていった。それもそのはずで、私も調教師とは言えまだまだ2年半足らずの未熟な見習い調教師であったと思う。今あらためて当時を振り返ると調教師としての課題そのものが教育実習の現場でもでたような気がする。生徒の気持ちは二の次で力で押さえつけようとしていた。それがまさに自分が越なくてはならない課題であったのに、その当時は教育実習での難しさや違和感を、「自分が求めていたのとは違うな？」とか「経験してみて自分には向いていないな？」と軽く受け止めてしまうことしかできないおめでたい人間だったと思う。<br /><br />

　そして今だから正直に言えることがある。私は中学時代の恩師富永先生に出会い、あこがれ、教師になりたいと思った。その気持ちを決定的にしたのは高校時代の野球部での出来事だった。高校2年の冬、ベースランニング中突然腰に激痛が走り左足が利かなくなり選手生命が絶たれた。その後、キャプテンを任されていることもあり野球部に残ったが、練習も出来ず煮え切らない中途半端な私だったので部員達に迷惑を掛けてしまった。その思いを払拭するためにも今度は指導者としてグラウンドに立ちたいという一心で教師を目指していた。実際、教育実習で一番充実していたのは野球部を任された時であった。教師になりたかったのではなく野球部の監督になりたかっただけかもしれない。<br /><br />
 
　今から15年前に周防猿まわしの会の芸能部長という調教師をまとめる大役を任されながら10年以上焦点の定まらない仕事を続けてきた。そんな私を見兼ねて現周防猿まわしの会最高責任者である長男の與一兄貴から「五郎、お前が育てる高校野球部はどこにあるのか？素晴らしい芸人達に恵まれながらお前はどこを見ている。周防猿まわしの会の調教師集団を育てる仕事こそ、やりがいのある監督業はないぞ。」私も40歳を迎えようとしていた頃だったと思うが、自分の活躍できるステージに気付くことができた。約20年近くかかり、「教えることは学ぶことから始まる」という與一兄貴の言葉、噛みしめながら今は辛いことも苦しいことも「お猿さんに学ぶ」「若手調教師から学ぶ」「お客様から学ぶ」姿勢を自然体で楽しめているのではないかと思っている。親父の「猿一頭調教できないやつに人間の教育ができるわけがない」という言葉があらためて胸に響く。<br /><br />

　教育実習が終わった時に気持ちの整理がついたのかもしれない。翌日に行われるイベントに出演するために、開催場所の東京都大田区に向けチョロ松とともに出発した。900キロの長旅であったが、晴れやかな気持ちでふるさとを後にした。]]>
        
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    <title>第十八話　人生の岐路</title>
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    <published>2011-08-31T04:08:21Z</published>
    <updated>2011-08-31T04:13:47Z</updated>

    <summary>チョロ松物語　第十八話。更新日：2011年8月31日</summary>
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        <name>猿まわし劇場</name>
        
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        <category term="エッセイ＆インタビュー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.suo.co.jp/">
        <![CDATA[　1988年6月は本当にめまぐるしいひと月になった。地方のイベント出演をこなす多忙なスケジュールの中、上旬に阿蘇猿まわし劇場の起工式に出席、中旬にはSONYウォークマンCM第二弾「草原編」の撮影で北海道静内町へ遠征し、そして下旬にかけては自分の人生を左右するであろう教育実習を受けるために母校である山口県光市立浅江中学校の門を久しぶりにくぐった。<br /><br />


　私には教員になるという夢があった。そのきっかけとなったのは、私が浅江中学校2年生の時に赴任してきた富永泰寿先生（当時30歳）だった。先生の第一印象としては今の時代には考えられないようなスパルタを絵に描いたような『怖い』『危険』という言葉がぴったり当てはまるような先生であった。私が部活で在籍した野球部の顧問でもあり野球の面白さ厳しさをスポーツ全般を通じて教わった。部活以外でも生徒に一生懸命向き合うひたむきさ、どんな困難にもあきらめない姿勢、富永泰寿という人物を知れば知るほど私は先生の人柄、魅力にひかれていき、中学２年生の夏、先生と同じ日本体育大学に進学して教師を目指し、いつか先生のような指導者になりたいとう思いを抱くようになった。<br /><br />


　それまでの夢は・・・・。小学校２年の時に親父にグローブをプレゼントしてもらったのがきっかけで野球をはじめてからは明けても暮れても野球というぐらい勉強もせず野球と遊びに没頭していた。そして、小学校4年の時にテレビ中継で、中日ドラゴンズの「星野仙一（現楽天ゴールデンイーグルス監督）選手」を見てファンになり以来今でも星野監督が指揮を執る球団を常に応援している。さらに、小学校5年の時にNHKの中継で見た夏の高校野球大会での神奈川県代表、東海大相模高校の「原辰徳（現読売ジャイアンツ監督）選手」に憧れていつしかプロ野球選手になりたいという世間一般の子供と同じような夢を持っていた。 野球選手から、教育者へ、夢は孤を描いて変化していった。     夢と希望に満ちあふれてのぞむ教育実習でありながらその気持ちとは裏腹に複雑な心境があったことも間違いない。この時点までは間違いなく教員になることがひとつの目標であり、それを実現するには大学卒業後チョロ松とのパートナーを解消しなければならない。このまま猿まわしの後継者として進むのか、教員の道を目指すのか。どちらの人生を選択するのか。仕事と学生生活の狭間で本当に迷いながら教育実習へ挑むことになる。  チョロ松と共に中央道、中国道を走って山口に向かった。]]>
        
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    <title>第十七話　思いもよらぬ訪問者</title>
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    <published>2011-07-31T10:16:45Z</published>
    <updated>2011-07-31T10:20:03Z</updated>

    <summary>チョロ松物語　第十七話。更新日：2011年7月31日</summary>
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        <name>猿まわし劇場</name>
        
    </author>
    
        <category term="エッセイ＆インタビュー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.suo.co.jp/">
        <![CDATA[　1988年6月中旬、チョロ松は北海道静内町の草原に威風堂々と立っていた。<br /><br />


　空前の大ヒットとなったソニーウォークマンのCMに出演してから1年を迎えようとしていた。５月中旬には第二弾の出演依頼も請けていた。第一弾「湖編」は神奈川県芦ノ湖にて撮影を行ったが、第二弾は期待を裏切るという意味でハワイのワイキキビーチという案が浮上した。<br />
　その話を聞いた当時の私にとっては「なんだ・・・ハワイか？」くらいの気持ちだったが、今思えば残念な気持ちでいっぱいである。しかし、渡航にはチョロ松の検疫等の問題をクリアーにしなければいけないし、そのための準備期間が1ヶ月では不可能だった。そこで涼しく雄大な自然を背景にというコンセプトで選ばれたのが競馬の競走馬育成などで有名な北海道静内町の草原であり、暑さに弱いチョロ松（ニホンザル）にはありがたい場所であった。<br /><br />


　そして撮影当日、第一弾で苦労しただけのこともあり第二弾に臨むチョロ松には余裕も感じられ、セットの立ち位置につくやチョロ松は「これでいいの」と言わんばかりの目つきでウォークマンを持つとすぐさまお得意の「瞑想」の表情をした。完璧なチョロ松の演技に私も「チョロ松、いいぞ」と思ったが、制作側は第一弾とは若干違う素材をSONYさんからも求められているからか、結城監督からは簡単にOKは出てこない。ただ、改めてチョロ松の学習能力には驚かされる。「湖編」では三日間も要した部分をたった一日で撮影出来たのだから。残りは二日間の余裕があり、第二弾ならではのシーンが撮れれば終了である。<br /><br />

　撮影二日目、早朝からの撮影も順調に進んでいた。午前中の撮影も終盤にかかった頃、高級外車で4、5人のいかにも・・・という男性達が乗り込んできた。撮影現場に緊張と重々しい空気が流れる。10分ほどだったがスタッフと話をしてすぐに帰って行ったのだが、しばらくして監督から「五郎さん、撮影内容としてはほぼ納得していますがあとひとつどうしても撮りたいシーンがあります。時間がないので申し訳ないのですが撮影を急がせてください」。予定では撮影は三日間あるはずなのだが再度スタッフから「撮影を早く済ませて撤収します」との説明があり撮影再開した。監督の納得のいく映像が撮れず刻々と時間だけは過ぎて行った。その時突然監督が大声を上げた。「OKです」。姿を隠すために穴に入っている私には何も見えない。一体何がOKだったのかわからず監督に聞いてみたが「今回は仕上がった作品を見て探してください」とだけ伝えられ撮影終了、慌ただしく撤収作業に入った。スタッフからは「五郎さん達はこの地域からはなるべく遠くに逃げてください」という指示がありチョロ松と私は静内町をあとにして200キロ離れた洞爺湖に向かった。後日説明があったのだが、撮影にあたっては現場の使用料も払っていて撮影許可も取っていたが、別の方からSONYのCM撮影ということを聞いて、法外な使用料を請求してきたのだ。<br /><br />

　撮影から数日経って「SONYウォークマン 草原編」が完成し東京事務所に届けられた。繰り返し何十回も映像を見てようやく「湖編」との違いに気付いた。CMのサビのシーン、大自然に向かってウォークマンを聞いているチョロ松の後姿、チョロ松の尻尾が「ピン！」と立っていくのだ。いかにも偶然に撮れたようにも感じられるが、「湖編」で生まれた「瞑想シーン」と同じく、アクシデントに見舞われたあわただしい現場でも、粘り強くチョロ松の自然な動きを待ち、引き出し、作品に仕上げてくださった結城監督他スタッフの皆様に深く感謝している。
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    <title>第十六話　ススキ</title>
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    <published>2011-06-30T02:19:05Z</published>
    <updated>2011-06-30T03:32:48Z</updated>

    <summary>チョロ松物語　第十六話。更新日：2011年6月30日</summary>
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        <name>猿まわし劇場</name>
        
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        <category term="エッセイ＆インタビュー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[　都内の金融機関から、背広を着た紳士達数人が阿蘇を訪問してくださった。常務取締役という名刺をもたれた方が視察のリーダーであり、融資するかどうかの最終判断をされるのだ。進出の前提として、土地は買収、そして自前の劇場を建設することが親父の基本的な考えだ。初期投資に膨大な資金が必要になるし、途中で事業が困難だからと簡単に放棄することもできない。後ろは谷底、前に進むしかない。それが親父流の覚悟の見せ方である。初期の周防猿まわしの会にとってのるかそるかの大事業であることは間違いない。投資額は数億円、見たことも触ったこともない大きな金額である。予定地を丹念に紹介し事業を説明した。こんこんと湧く麗岳湖周辺の美しさ、周囲の落ち着いた地勢についても建設予定地として最適であること、何よりも「阿蘇五岳」（阿蘇山の別称）に登っていく赤水登山道の脇にあり、観光客が高い割合で側を通過するという最高の条件を備えていた。そして、常務さんがぽろっと親父に話をしはじめた。「村崎さん、私はこの阿蘇に自生しているススキが大好きなんです。ススキが残る自然を大事にしたいと思っているのですよ。この阿蘇にはススキがいっぱいですね。枯れススキも最高に魅力的です。どうかこのススキが阿蘇の観光資源として大事に継承されるように村崎さん達も頑張ってください。」常務さんは終始にこやかで短い阿蘇視察を惜しむように楽しまれて帰郷された。親父からこの時の話を聞くたびに、高度成長という名の下に日本各地が開発され、自然や郷土の芸能が簡単に消滅していく現状を憂える方がいらっしゃるのだと感じた、雄大な阿蘇の自然を象徴するススキとともに阿蘇猿まわし劇場実現が加速していくこととなった。ふりかえってみると当時日本は、高度成長時代の最終局面にさしかかり、金融機関としても有望な融資先を探していた。<br /><br />

　私が２１歳の時に都内のあるお店で知り合った友人がいる。彼の仕事は不動産業で私とはまったく異なった仕事だがお互いのために本気で本音を言いあえる２５年来の友人となった。今から１２年ほど前に彼の勤める不動産会社の会長と会食する機会に恵まれた。会長といっても私の友人すら影を踏めない特別の存在感をお持ちの方だったのです。数ある不動産会社の中でも間違いなくトップクラスの成功者でした。
初対面のその席でさすがに緊張してしまいかなりのお酒が入ってしまった上に無礼講の雰囲気の中で空気も読めず、深い考えもなく村崎義正の話しになってしまったのです。挙句の果てには不動産業界では成功者である会長に阿蘇の劇場を建てたときの苦労話を延々と一時間に渡って話をしてしまい、会長は黙って聞いてくれ、「五郎ちゃん感動したよ、お前の親父は本当にすごい人だ。確かに当時のバブルという時代を考えれば金融機関としてはお金を貸すところをさがしている。しかし将来あるのかすらわからない猿まわしごときに簡単に億単位のお金を貸せるものではない。結局のところは、人対人なんだ。お前たちも今の関係を大事にしろよ」と力強く握手してくださいました。言葉の通り、その後も垣根のない付き合いをしてくださり、１２年経った今でも本当にいいお付き合いをさせていただいています。初対面でハラハラしながら話を聞いていた友人が、ぶっしん！（私の仇名）にも親父さんにも感心するよ。といまでもその話に及ぶたびに冷や汗をかきながら話しが弾む。<br /><br />

　阿蘇の土地の買収に動く、そして劇場の設計、駐車場計画と着工準備へ向け順調に進んでいった。親父夫婦は本社を守らなければいけないこともあり阿蘇の責任者として次男の龍雄兄貴夫婦を阿蘇に赴任させた。兄貴夫婦は山口県光市にある周防猿まわしの会の本社の隣に家を新築したばかりではあったが迷うことなく親父の任命を受け、まったく土地勘のない阿蘇へ赴任することを決意した。長年親父の側で仕事をしてきた龍雄兄貴は親父の苦労を一番理解し協力を惜しまない兄であった。親父の勝負に自分も家族も身を投じるさすが龍雄兄貴、この男気のある生き方が、阿蘇の皆様にも伝わり意気投合し阿蘇猿まわし劇場の成功に大役を果たすこととなった。龍雄兄貴のこの決断なくしては阿蘇の成功はなかったといっていい。そして龍雄兄貴を兄弟同様に思い、お付き合いくださったのが塚元隆議員の長男でもある同世代の塚元秀典氏だった。この阿蘇の地においては塚元隆議員同様に人望も厚く全幅の信頼を得られている人物であり地元との大切なパイプ役も担っていただくことにもなる。そしてさらに心強かったのが龍雄兄貴の片腕になる久保幸浩（現阿蘇猿まわし劇場事務長）という人物を塚元隆議員より紹介を受けたことではないかと思う。国鉄の人員削減が吹き荒れ去就を考えあぐねておられたが阿蘇さるまわし劇場に加わっていただけることとなった。実直で人を裏切らない。しかもこれほどの人物どこを捜しても見つからない素晴らしい参謀役であった。その後現在まで２３年間にわたり阿蘇猿まわし劇場のために身を粉にして頑張ってくださっている功労者である。後に入社される奥様の久保主任（役名兼仇名）は若くて美しいだけでなく夫や家族を支え久保氏とは違った多彩な才能の持ち主であり、未知数の阿蘇猿まわし劇場の戦闘能力が高まってゆく。<br /><br />

　チョロ松と私の役割としては当時周防猿まわしの会の稼ぎ頭であるためこれから劇場完成までにどれだけの費用がかかるかわからない、とにかく親父からは「稼げるだけ稼いできてくれ」と全国各地のお祭りイベントに飛びまわった。全国各地を飛びまわっていて日銭を稼いで阿蘇に送金するそれが役目だった。投資額も大きいがそれに利息も当時はびっくりするほど高かった。１０年で貯金が二倍にもなるバブル期だった。周防猿まわしの会のメンバーの団結力、そして塚元家や阿蘇の地元の皆様の支えや協力もあり、１９８８年６月８日、阿蘇進出計画決定から４ヶ月足らずで「阿蘇猿まわし劇場・起工式」にまでこぎつけることができた。一言で４ヶ月というと簡単にことが進んだと思われがちだが親父の劇場にかける情熱はとにかく半端ではなかった。これだけの計画は親父の情熱だけで当然作れるものではないが何故か人は親父に巻き込まれていった。親父が動けば人も動くというように不思議な魅力を持っている、それが村崎義正だった。起工式当日は周防猿まわしの会の全コンビも阿蘇に集結し地元の園児達を中心にたくさんの方に猿まわしの芸を楽しんでもらい魅力を知っていただけるきっかけにもなった。ここから「笑い」と「感動」の阿蘇猿まわし劇場の建設が加速していくことになる。成功か失敗か考える余裕も迷いもなく進んでゆく。私は４月に大学４年生となり、最後の学生生活がはじまるとともに決断の日が近づこうとしていた。  決断は自分がするけれどやはり親父抜きでは考えれない決断、本話の最後にその親父とのエピソードを紹介させていただいて終わりにさせていただきます。<br /><br />

 　村崎義正という人は豪快でありながら繊細な一面も持ちつつもとにかく愉快な人であったと思う。サービス精神も旺盛で色んな場面であきさせない親父であった。チョロ松がウォークマンでブレークした年末の話だが、親父から東京事務所の私に電話が入った。「今年は、チョロ松と五郎は本当によく頑張ってくれ た。特別ボーナスをだしちゃらんといけんと思うちょる。郵便で送ったから楽しみにしちょってくれ」。何ともテンションのあがる嬉しい連絡。数日後、そのボーナスが東京事務所に書留で送られてきた。当然、現金だろう、幾らかと思い郵便を開けてみると中には箱のような物がはいっていた。「ウォークマン・・・？」、それはSONYさんがCM大賞最優秀スポット賞に輝いた記念に製作した刻印入りのウォークマンで周防猿まわしの会村崎義正会長に記念品として贈られてきた大変貴重な三台のうちの一台であった。「何故ウォークマンなの？」その後聞くことも出来ず結局私に送られた意味は聞かずじまいになってしまったが今でも箱を開けた瞬間のどう反応するべきか迷っていた自分の気持ちを思い出すと笑ってしまうんです。  そんな愉快な親父であり、知らないうちにたくさんのことを学び、猿まわし人生の土台を造ってくれた親父、しかし、親父と共に生きることができる残された時間は急ぎ足で過ぎて行った。
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