周防猿まわしの会のファンの皆様へ

周防猿まわしの会のファンの皆様へ

自称、猿まわし師「村崎太郎」氏は周防猿まわしの会の一員ではありません。
周防猿まわしの会が運営している阿蘇猿まわし劇場並びに河口湖猿まわし劇場とも一切かかわりがありません。
  *周防猿まわしの会では「猿まわし師」という名称を使用していません。
       したがって、自称という表現にさせていただきました。


 2013年3月11日放送されたテレビ朝日の人気番組「徹子の部屋」に、自称猿まわし師の村崎太郎氏が出演されました。人気番組なので多くの方がご覧になったと思います。

 その際、番組内で村崎太郎氏が黒柳徹子さんのご質問に答えた内容で多くの視聴者に誤解を与える内容が含まれておりました。限られた時間内のやりとりであったとしても、「誤った情報」を伝える結果になっています。その放送直後から周防猿まわしの会や会が運営する、熊本県の阿蘇猿まわし劇場、山梨県の河口湖猿まわし劇でスタッフや調教師に質問が寄せられました。特に多かったのが、「太郎・次郎はここといっしょですか?」と村崎太郎さんが周防猿まわしの会の一員であるかどかという確認の質問です。もちろん「周防猿まわしの会の一員ではありません。」とお答えしています。人気があるだけでなくその人柄が厚い信頼を得ておられる黒柳徹子さんの番組にたびたび出演している村崎太郎氏が周防猿まわしの会や両猿まわし劇場のメンバーであることを期待されてのご質問だと思いますが残念ながらそうではありません。

 「徹子の部屋」の放送内で「誤った情報」があったとことに触れます。

 故小沢昭一氏が猿まわし復活の恩人であったエピソードに及んだ際の番組内のやりとりを再現します。


   村崎太郎氏「小学生二年生の時、私も覚えているんですが、小沢昭一さんが私の父に会いにきまして、『やっとたどりつきました。』とここ山口県光市が猿まわし発祥の地らしいということで『是非、やってほしい。』

   それから10年以上たちまして、私が高校生の時に猿まわしになるんですが・・

   小沢昭一さんがいなければ、私は今この場にはいないんです。」

   黒柳徹子さんの質問「じゃや、お父様もそこでやってみようともお思いにならなかったのでしょうか?その時は・・・?」

   村崎太郎氏「ええ!父はやるつもりはなかったんですね。まあ、おじいちゃまが猿まわし芸人で、父は政治家だったものですから・・・・

   黒柳徹子さん「そうなんですか? えー えー・・・」

   村崎太郎氏「それで高校生の時に、まあ、私がやりまして・・・


というやりとりが番組内で行われました。


 番組内のやりとりで村崎太郎氏は「父は政治家だったものですから、猿まわしはやるつもりはなかった。そこで自分が高校生の時に猿まわしになった・・・」と語っていますが、事情を詳しく知らない、しかも確かめようがない黒柳徹子さんや「徹子の部屋」の視聴者の皆様には、一旦滅びた伝統芸能「猿まわし」を復活した偉業は村崎太郎氏によるものと誤って伝わりかねない発言は、村崎義正と一緒に同時代を共に歩んできた我々と猿まわし復活を共に成し遂げた猿まわしの先人、多くの協力者、賛同者にとっては見過ごすことはできません。

 故村崎義正(村崎太郎氏はその4男になる)は、ふるさとの大先輩丸岡忠雄氏の薫陶を得、小沢昭一さんや民俗学者の宮本常一さんら幾多の支援者のご協力を得て、また、昭和期最後の猿まわし調教師・芸人であった重岡フジ子さんのアドバイス、その後袂を分かつことになった青年諸氏も含めて周防猿まわしの会の初代会長に推され、市会議員の要職をなげうって晩年、周防の猿まわしの復活に余生を捧げたことは、自著「猿まわし復活」「歩け!飛べ!三平」「猿まわし千年の旅」で詳細に書きこんでいる。幻の芸能だっただけに調教法、芸態、そして芸能を残すための事業としての確立には容易ならざる試練があった。村崎義正は、放浪芸・大道芸であった猿まわしが浮草稼業であり、歌舞伎などと同様になんとしてもしっかりとした芸能としての基盤作りを目指したいと願い、日本史上初の猿まわし専用劇場として阿蘇猿まわし劇場を平成元年3月26日にオープンさせた。つい先日、2013年3月26日にそのオープン25周年目を迎え多くの方々から祝福を受けたばかりだとうことを申し添えたい。

 周防猿まわしの会は当初、滅びた周防猿まわしの記録の発掘を目指した。しかし、猿まわしの魅力を知りつくしている村崎義正の最終目標は、猿まわしの芸能そのものを復活・継承することだった。その鍵となるのは調教法の確立と後継者の確保であった。調教法の確立は重岡フジ子さんのご協力で村崎義正自身が科学的な手法で開発確立した。後継者として白羽の矢を立てたのが、当時高校卒業を控えていた4男の村崎太郎氏だった。仕事として成り立つかどうかわからない時期に他人様のご子息を後継者にするという冒険はできず、身近にいて音楽好きであった4男太郎氏に声をかけたのである。後継者第一号であることと、周防猿まわしの会あげてのバックアップと太郎氏自身の努力により、注目を集め、名声を得た。

 その後、村崎義正が平成2年に若くして他界した後、村崎太郎氏は周防猿まわしの会の一員として芸術祭参加、アメリカ公演など挑んできたが、様々な試練を経て成長してきた周防猿まわしの会の中で、村崎太郎氏の意見や強引な手法が通用しなくなり、周防猿まわしの会取締役兼芸能部長の立場をフルに利用して、周防猿まわしの会を自分の意のままに動かせる体制を維持しようと配下の調教師、職員に執拗に働きかけクーデターを計画実行したが、最終的には周防猿まわしの会の取締役兼芸能部長の職を解任され周防猿まわしの会から追放された。このことに不服だった太郎氏は東京地方裁判所に周防猿まわしの会との訴訟を起こしたが、一年に及ぶ裁判の結果、太郎氏は、周防猿まわしの会に対して謝罪すること、今後周防猿まわしの会の名称を勝手に使用しないこと、この間周防猿まわしの会に与えた損害にたいして損害賠償金を分割して支払うことなどを含めた厳しい判断が下され、最後に裁判長から今後このような行動を行わないよう太郎氏個人に裁判長直々に厳しい警告がなされた。

 このような経過を経た後、周防猿まわしの会としては村崎太郎氏の長年の功績を踏まえて太郎・次郎の名跡を引き続き使用すること、周防猿まわしの会の下で開発され一世を風靡した「反省芸」を使用することを黙認し、そして周防猿まわしの会の登録下にあった二代目次郎を太郎氏に譲り、周防猿まわしの会を去った後にも生きてゆくための道を残せるよう配慮をした。また、この間に起こった出来事は外部に出さないようにしてきた。そのため、村崎太郎氏が周防猿まわしの会の一員であるかのごとき誤解を与え続けてしまったことに対し深くお詫び申し上げます。

 あれから長い年月が経過したので、過去のいきさつを明らかにして、猿まわしの伝統芸能が継承されたいきさつや、周防猿まわしの会のファンの皆様や興味を持ってくださる方々に村崎太郎氏が周防猿まわしの会の一員でないことを改めてお伝えすることにいたしました。