第八話 チョロ松スターになる

 まず、第七話で書かなかったCM撮影秘話をご紹介させていただきます。

 「チョロ松くんの持つウォークマンは撮影用に何台用意すればよろしいでしょうか。」と撮影前にスタッフから連絡があり、「チョロ松が壊すことは多分ありませんが、3~5台もあれば十分です。」と伝えた。スタッフは万全を期し30台用意したにもかかわらず、撮影で使用したのはたったの1台だけ。普通のお猿さんであれば気持ちが切れたりするとウォークマンを落としたり投げたりするのだが、チョロ松はそーっとウォークマンを置くか私に手渡すのです。今考えてもお猿さん離れしたチョロ松の優しくて穏やかな性格、真面目さにはスタッフはもちろん私も驚かされました。

 本編に戻ります。

 過酷な撮影が終わり、夏休みを迎えようとしていた。スケジュールは相変わらず暇、40日間で7~8本の営業(ちなみにチョロ松指名の仕事は1本もなかったが・・・)があっただろうか。代々木公園や数寄屋橋で行う大道芸も夏は暑さが厳しい為夕方の限られた時間しか公演が出来ない。学校も休みになりある意味ゆっくり調整しながら営業に出て行く。今では考えられないが、のんびりとやれる時期でもあった。

 1987年7月中旬、CMが流される初日。朝から「どんなCMだろう」と興味を持って待ち望んでいたが、放送前までは軽い気持ちもあり期待感はほとんどなかった。CMを見て「ああ、こんな感じね」、いつも付き合っているチョロ松そのままであったから、私自身たいした感動はなかった。しかしそう思っていたのとは正反対でCMによって生活が一変することになる。CMが全国に流れ、SONYに問い合わせが殺到した。「CMに出ているお猿さんはぬいぐるみなんでしょ。本物のお猿さんなの。お猿さんがあんなうっとりした表情をするわけないでしょう。」「どこのお猿さんなんですか。」という内容だった。CM放送後1時間が経ち東京事務所の電話が立て続けに入り始め鳴り止まなくなった。事務所の壁に模造紙で書かれたスケジュール表が見る見るうちに埋まってくる。更に驚くのは、これまで数ヶ月先のスケジュールなんかは入る事も無かったのに、早々と、翌年のスケジュールまで入り出した。夏休みのスケジュールは2~3日で全ていっぱいになった。私はただただ驚きのひとことだが事務所のスタッフもこんな事態になるとは予想もしていなかったので突然の反響に慌てていた。ただ本社にいる親父だけはCM撮影直後から相当な手応えを感じていたようでいたって冷静であった。5月に芸名を義則から五郎に変えた時に「今後お前とチョロ松は必ず世の中に出ていくことになる。」と親父に言われたのを思い出す。CMが放送された直後に親父とどう会話したか憶えていないが「チョロ松」という周防さるまわしの会のスターが誕生し未来への希望を抱いたに違いない。さらに自分もびびってしまうような仕事が飛び込んできた。吉本興業が梅田花月への出演を打診してきたのだ。一流の芸人しか立てない舞台である。CMの反響の大きさをあらためて感じた。吉本興業からの打診を仲介してくださったのは大阪の音楽家すずききよし先生(もんたよしのりのお師匠さんでもある)、周防さるまわしの会復活当時から応援団のお一人だったのですぐに出演が決まった。