第六十三話 こけら落としに穴をあける

 下北公演のオーディションに落ちたことで、台本を書くことになり、舞台の裏方の仕事を経験してその後のチョロ松・五郎コンビの課題がたくさん見えてきた。

 余談ではあるが、実は、努めなければならない舞台をすっぽかしたことが過去にある。

 話はさかのぼること29年前、1986年(昭和61年)9月7日、猿まわし史上初の常設劇場、猿まわし小劇場が猿まわしのふるさとである山口県光市にオープンした。小劇場の玄関には猿まわし復活にご尽力いただいた俳優の小沢昭一先生直筆の立派な看板が架けられた。収容人数約100名余りのこじんまりとした劇場ではあるが、ステージはチョロ松達芸猿がのびのびと縦横無尽に動くことができ、何よりもステージと客席の敷居があるためチョロ松達がお客様との距離感の中でストレスを感じず演技をすることができた。また稽古場として活用でき調教等の効率も上がった。それまでは大まかな稽古は道路や空き地等を利用し、どうしても詰めなければいけない仕上げの稽古や調教は屋内の事務所の空いてるスペースや家の中で稽古をした。団体のお客様から予約が入ると庭の敷地内や海水浴場の一角で団体のお客様を受け入れて公演を行っていた。

 こけら落としには周防猿まわしの会復活当初から携わった方や市民の方たちを招待して行われた。当日、私は大事件を起こしてしまった。前日、舞台の構成について親父から指示があり、当時周防猿まわしの会の十八番芸竹馬高乗りに関してはチョロ松がもっとも安定しているということでチョロ松がとりをつとめることになったことに四男の兄からクレームがついて大喧嘩になった。新人コンビのチョロ松・五郎コンビがとりというのは問題だということであった。納得が行かなかった私は、こけら落としが始まる直前にボイコットして舞台に出演せず公演中に劇場の外にでた。急遽、竹馬高のりの開発者でもある常吉・義正コンビが兄弟喧嘩の尻ぬぐいでとりの舞台を務めてくれたみたいであった。

 一生に一度しかないこけら落としの舞台に水を差してしまったことは若気の至りとはいえ本当に後悔している。当時は小劇場がオープンしたことの意味や史上初の劇場建設への親父の思いというものなどまったく何も考えずにきた。阿蘇と河口湖の両劇場に今も周防猿まわしの会の歴史が展示されているコーナーがある。写真のひとつに小劇場こけら落としの写真があるが、そこには何事もなかったような表情でちゃっかり写っているチョロ松と自分の写真がありそれを見るたびに本当に情けなく思ってしまう。

 チョロ松物語の連載をスタートしてこの六十三話で六年目を迎えた。原稿の締め切りが近づく度に一月の短さに驚かされるが、ようやくここまでこれた。毎月、読んでいただいている皆様に感謝申し上げます。小説家を夢見た親父が、自叙伝を何冊かに執筆した。そこには残しておかなければならない猿まわしの歴史や調教論が散りばめられている。証言者が高齢になり消えかけた猿まわしの姿が残された。私も親父亡き後の周防猿まわしの会の歩みを書き残すことが親父から受け継いだ役割の一つと思い原稿に向かっている。

 猿まわしを生業にする集団が増えては消えていく。その中で、我々周防猿まわしの会、そして、阿蘇猿まわし劇場と河口湖猿まわし劇場は、マスコミに取り上げられることがあまりない。それなのに、二十年、三十年の年輪を重ねた後も生き残っている。なぜそれができたのか。できているのか。それをしっかり考えながら、2016年の申年を迎えたいと思う。

 よく、たかが猿まわし、されど猿まわしと我々は言い合う。猿まわしの大衆芸能にも譲れない基本が生きている。しかし、それに甘んじていたのでは時代に取り残されてしまう。台本を壊し新しいものにチャレンジする。下北公演は実験的な公演であったがそこで演じられた演目が今、輝いている。兄弟喧嘩でボイコットした自分は小さかったし、親父を始め兄弟に甘えていた。今は厚い壁に向っている。皆様には申年に向け、試みている新しい猿まわしを是非ご覧頂きたい。ぜひ、阿蘇と河口湖の猿まわし劇場においでください。