第六十話 母節子と常吉

 2014年の2月23日朝一番、今年も富士河口湖町河口にある浅間神社に参拝した。
 富士山の日であり、おやじの命日が同じ日で特別の思い入れが私には強い。前夜書き終えたチョロ松物語の第六十話の内容がしっくりいかない。そこですべての内容を白紙に戻して書き直すことに決めた。参拝して気持ちも入れ替わり河口湖で人気あるカフェ「シスコ」で原稿に向かった。

 村崎家に嫁いできた母節子は本当に苦労と苦難の連続だったと聞いている。村崎家に限らず戦後の日本は厳しかった。その中でもどん底という言葉が似合うのが節子の嫁ぎ先だった。夫の義正には七人の兄弟姉妹がいて、義正は次男であったが親代わりをしなくてはならなかった。父は病死、働き者で優しい母は祖父との折り合い悪く村崎家を追い出された。その祖父も事業で成功を収め資産家に成り上がったが他界して、気づけば十代の義正に村崎の命運がのしかかってきた。甘く育てられた義正の兄は人が良いのに乗じられて財産をむしりとられた。兄弟を養育し学校にあげ社会に送りだすことが義正の使命となった。
 にっちもさっちもいかないギリギリの家に救いの女性が現れたのだ。そして五人の息子も産まれ、合わせて12人の家庭を支えてきた。若いのに一家を守るために、リヤカーを引き廃品回収にまわった。隣の町まで十数キロあるがリヤカーを引き家から家を訪ねて廃棄寸前の品物を買い集めた。そのバイタリティ溢れる姿に多くの人から良くしてもらったと聞いた。同情かも知れないがその同情がなければ家族が餓死してもおかしくなかった。なりふり構わず毎日を生きた。突然、長男が重病に冒された。当時、その病気の治療法はなく、命は取り留めたとしても一生大きな障害を抱えて生きなければならない。どん底から這い上がるどころかさらに突き落とされた節子と義正だった。

 義正は苦しんでいた。なぜ蔑まれ貧しいのか、誰も答えを教えてくれない。どうしたら自信を持ち人生を歩めるのか、いやその権利が自分には認められていないのか。小学校さえ行けなかった義正にからくりなどわからない。生き別れた最愛の母に会いたい。母の噂を聞くと訪ねるがそこにはいなかった。自暴自棄だったとよく話していた。飲んだくれて節子とも大喧嘩をした。瀬戸際の村崎義正がこれらの難問をいかに紐解いたかは義正自身が後に執筆した著作に詳しく書いているのでそれを読んでいただきたい。

 「命は鍛えに鍛えて輝く」と義正の墓標に節子が刻んだ。
 その通リ、村崎家は大逆転で再興した。村崎義正著(筑摩書房から出版)「砂と雷鳴」という本を執筆した。原稿を残したが一冊の本になる前に義正は他界した。ほどなく、長男が編集者として活躍された山田さんの協力を得て出版にこぎつけた。この本に描かれているのは義正と節子が子育てをバネに未来を切り開くドキュメンタリーたっちの物語だ。

 周防猿まわしの会復活後、節子は「義正・常吉コンビ」のマネージャーとして全国一緒に飛びまわり、義正の世話だけでなく特別に可愛がっていた芸猿常吉のバックアップに夢中だった。常吉というお猿さんは調教師である私でさえ目を合わせた瞬間に後ずさりをしてしまうほどの体格と迫力を持っているにもかかわらず、お袋はそんな常吉を恐れることなど眼中になく本当に我が子のように接した。

 お袋は輝いていた。

 1985年、ちょうど私が入門した時でもあるが、山口県の地元テレビ局が義正に焦点を当てたドキュメント番組を制作した。『モンキーブルース』である。優秀作品として全国放送もされた。極寒の北海道稚内市の百貨店の仕事に呼ばれて行った時の宿泊ホテルで再放送されていて偶然見たことをよく覚えている。
 『モンキーブルース』は父義正と入門したばかりのニホンザル愛吉とが作り出す絆を描いたドキュメントなのだが、親父は臆病で気の弱い愛吉に苦労し、基本芸の習得に通常のお猿さんの二倍も三倍も時間を要した。愛吉が芸を覚えた瞬間「愛吉、やった!よく頑張った!お前もようやく峠を越えたな!」と抱きしめると、日頃なかなか声も出さない愛吉が初めて「ホオー」と答えるシーンがある。今でも忘れないがこの感動のシーンには初めてお互いが認め合い、コンビとして出発できた瞬間が描かれている、名場面であり心に残っている。
 その直後、愛吉を、お袋と義正が協力して一緒にお風呂に入れてあげるのだが小猿一頭にバスタオル二枚も使う親バカぶり、愛吉と親父とお袋三人で、ビールで乾杯し、そのビールをガブガブ飲んでいる愛吉に対し親父は「そうか!お前は大物になるの」と高笑いしているのだがいつも親父の傍らにはお袋がいた。それにしても五人の息子を育て、七人の兄弟までも育て、いやというほど子育てをしてきたにも関わらず、懲りずにニホンザルの子育てまでしている。