第六話 スターへの階段

 1987年4月、大学3年生になり、週22時間の授業時間から、半分になりチョロ松と付き合いのできる時間も多くなってきた。そして、 GW(ゴールデンウィーク)5月5日の子供の日、某テレビ局の朝の情報番組のオープニングの生出演が決まった。当然初めてのテレビ出演、前日親父から電話がかかってきて、また驚きのひとこと「明日のテレビ出演、名前を変えるぞ!義則では平凡すぎる、国民の皆様からも憶えやすい、親しみやすい名前、五郎に変える」、戸惑いがなかったわけではない。勘ぐる訳ではないが、親父にはまた何か別の意図があるのではないか。実は猿まわしをやるにあたり親父と約束を交わしていることが2つあった。第二話で書いた学校優先でのスタートが1つ、もう1つは、教師を目指すという目標があったので、猿まわしは大学の3年間という約束だった。ある意味、猿まわしをいつやめてもいいと逃げ道を作っていたのだと思うが、名前を変えるというのは更なる責任と覚悟が求められるのではないか、自分の持っている夢や目標がある中で簡単に返事をして良いものなのか、返事をするまでに迷いはあった。しかし今までの親父の発言やアドバイスに間違ったことはないし、いつもそう信じていた。こうして「五郎・チョロ松コンビ」が誕生した。

 テレビ出演から2週間後の日曜日、代々木公園に自主公演に行っていたJ君のパフォーマンスを見て声が掛かる。SONYのウォークマンの新CMで日本猿を使いたいということ。他のお猿さんも見てみたいということで、翌日、東京事務所をたずねてきて、チョロ松の見事な体格(その当時10才で、身長95cm体重14kg)、そして何よりその素晴らしい姿勢がいいと、即決でチョロ松に決まった。他にも候補はいたが親父からも「これだけの大きな仕事をやってのけられるのはチョロ松と五郎しかいないだろう」と言う言葉もありチョロ松が選ばれた。「すごい!SONYのCMに出演か!」と大喜びをしていたのも束の間、数日経って、「ちょっとギャラが高すぎるので(動物出演としては破格のギャラ)」と断りの連絡が入り、落胆したが話は二転三転、1週間後、「やっぱりこのCMは周防猿まわしの会のお猿さんでないと無理みたいです、チョロ松くんでお願いします」と連絡があった。後で知った話だが、野生のお猿さんで撮影しようとしたが、イメージ通りの撮影が出来そうもなかったそうだ。まさしく、SONYのCMへの思いと周防猿まわしの会の目指しているものが一致したCMだと思う。絵コンテも決まり、撮影に向けて練習が始まる。ウォークマンを持つ時の肘は直角でないとダメ、SONYブランドを目立たせるため持つ手は絶対動かさない等、今までにない動きにチャレンジした。当時のチョロ松にとってはこの程度の撮影であれば・・・ぐらいの安易な気持ちでいた私達は、過酷な撮影当日を迎えることになる。