第五十九話 母

 チョロ松物語に欠かせない登場人物、猿まわしの復活を父義正と共に歩んできた女性、母、村崎節子のことを皆様に紹介する時が巡ってきた。生前親父はどんな時も「節子、節子」と名前で呼んでいた。「おい」「お前」「あんた」などと呼んだことが無かった。父が母節子に感謝し大切にしていたんだなと私が最も感じていたやり取りであり、この強力な援軍が無くては貧困のドン底だった村崎家を守れなかっただろうし、猿まわしは復活できなかった。貧乏クジを選ぶ女性は少ない。その少ない女性の一人が母節子である。

 私は村崎義正・節子夫婦の五人兄弟の五男として生まれ育った。長男から四男まではほぼ年子であったが四男の兄と五男の私は5歳差離れていた。10歳近く年の離れた長男、次男からは可愛がられた記憶があるが、三男、四男からは虐げられた記憶の方が強く残っている。五人目は妹と願っていた中での私の誕生を快く思っていなかったのか、ことあるごとに兄たちは私に「お前は島田川(地元光市に流れる一級河川)で拾われたんだよ」とからかったが、真剣に受け止めていた頃もあったくらいトコトンいじめられた。
 私が物心がつく年齢になった頃には兄達が受験等に追われる中で、洗濯、炊事といった雑用のほとんどが私にまわってきた。なかでもご飯を炊くのは私の日課になっていて、サボって炊事をやらないと三男か四男が親父に言いつけ私は親父にこっぴどく怒られるという日々が続いた
 村崎義正家の食卓は一人づつ取り分けてあるような上品な食事はまずなく、出てくるものをとにかく早く食べたもが勝ちで弟だから残してもらえるというようななまやさしい状態でなく、まさしく野生の生存競争と変わらない。食べたければ強くならなければいけない。泣きながらでも命がけで食べていたが、体格の違う兄貴達に当然かなうわけもなく子供ながらに考え抜いて食べる手段を考えた。それはおかずが出てきた瞬間に自分が食べるもの全てに唾をかける。すると兄貴たちはすごい剣幕で怒るが私の唾のかかったものにはさすがに手をつけない。このことに味をしめ可愛げのないことを繰り返したためか兄達に可愛がられるわけもなかった。挙げれば数えきれないが、兄弟喧嘩で悔しい思いをした腹いせに、山口県の実家の柱に『三男(実際は名前が書かれていますが)のバカ、四男のバカ』と悔しさを込めて刻んだ跡が今も残っている。
 五人兄弟ならこれくらいの葛藤などあって当然だと思われるでしょうが当事者の私にはキツくて苦い経験だった。

 こんな五人兄弟の生みの親が母村崎節子である。 一人くらい娘がほしい。両親の願いは叶わなかったが、娘がいたなら節子の人生も豊かになったに違いない。息子の教育はいざとなったら親父の出番だが、母節子は様子を心配そうに暖かく見守ってくれた。そして、人生一貫してこの姿勢を貫いている。最愛の夫は56歳で旅立ち、血気盛んな息子達の葛藤が熱くなりすぎないように平和の象徴として猿まわしの会の真ん中に座り支援を惜しまなかった。日本に二つの劇場を持つ息子達が自由自在にとびまわれるように光市の本部を守り続けている。
 また、波乱万丈の人生を送ってきたお袋という人は楽をすることが大嫌いで、劇場がシーズンになると阿蘇猿まわし劇場に山口県の本部から自ら運転する車で片道約350キロを移動し、職員さんと一緒に汗を流し、厨房にたったり掃除をしたりととにかくじっとしていることがなかった。時間が空くと劇場の舞台を観賞し、頑張っている芸人さんに声をかけることを忘れなかった。猿まわしの肥やしにしてほしいと大衆演劇の観劇を盛んに勧めてくれた。

 最近、母節子と会い、親子の時間をゆっくり過ごした。下松市の健康パークで温泉に浸かり、お袋お勧めの大衆劇団の一座の公演を楽しんだ。新鮮な魚を少なめだが美味しそうに口に運ぶ。夫である村崎義正を失って25年間、息子は5人、親戚も居たが基本は一人で生きてきた。息子達兄弟間の争いに身を置き、近年は私も母節子と電話で話すことさえ出来なかった。故郷光市で久しぶりにお袋とゆっくりすることができた。
 お袋から勉強になるからと散々勧められていた大衆劇団の公演をようやく見て、その素晴らしさに感動した。猿まわしを生業とする私にもこれだけの追っかけのファンが付く訳もわかるし熱演に引き込まれた。
「お袋明日も健康パークにいくかね?」と尋ねると
「劇団を観たいんかね〜」と返してきた。
これまでお袋が勧めても全く興味なしを決め込んでいた私にお袋は仕方がないねくらいの素っ気なさである。