第四十六話 生死をさまようチョロ松

 平成8年、この年は河口湖猿まわし劇場のオープン元年となる年だ。厳冬期にも工事を行いGWオープンへ間に合わせようと発注業者も頑張ってくださっている。氷点下15度も記録したこの冬には工事も思うように進まない。基礎が完成し壁が立ち上がった段階で強い地震もあり関係者共々ひやりとした。工事を請け負ってくださった名工建設株式会社、設計の巽設計事務所と信頼できるメンバーのプロの仕事に助けられた。

 チョロ松と私は各地のイベントに出演し、2月には三重県志摩市浜島町の旅館『湯元館ニュー浜島』での一ヶ月公演に出演することになっていた。長期公演のため二週間で二組が入れ替わるようにしていた。2月23日は親父の七回忌法要もあり忙しい毎日が過ぎていった。本社山口への岐路、車中のチョロ松の様子がおかしいのに気づく。いつもなら私が車を運転している間はたとえ夜中であろうと車の中でおとなしくしていることがなく小屋の中で常に動いていているはずなのだが、バックミラー越しにチョロ松の様子を見ていると座りこみ、やたらに咳き込み、エサを食べない。食べても戻してしまう。年末年始の忙しさにチョロ松も疲れただろうから本社に到着したらゆっくりさせ疲れを癒してあげなければというぐらいの当初は軽い気持ちであった。しかしチョロ松の状態は悪くなる一方だった。なんとか本社に到着したのだが、咳こむ回数が時間を追うごとに増えてきた。最後には食事すら取らなくなってきた。翌朝、すぐに診察を受けることとなり、下関市の山縣獣医科まで車を走らせ緊急で診察を受けた。診断は風邪をこじらせての肺炎だが、肺炎といっても子ども並みの心肺しかないニホンザルには致命傷となる場合があるほど深刻な事態だ。抗生物質を投与するのでとにかく休ませてくださいとのことであった。日頃から薬に頼っていないので劇的に回復することもある。本社滞在中、ゆっくり休ませたがなかなか回復の兆しがみえてこない。予定していたチョロ松と私の『湯元館ニュー浜島』での出演を別のコンビに代わってもらい、チョロ松は絶対安静のため河口湖事務所に戻り静養させてもらうことになった。

 河口湖に戻ったことでチョロ松の容態はさらに悪化した。2月の河口湖の気候は昼間でも氷点下になるような日があるぐらい厳しい冬が続く。山口県から山梨県河口湖に移動したことによる寒暖の差にチョロ松は悲鳴をあげたのか体を起こすことすら出来なくなっていた。河口湖に来て数ヶ月、まだお猿さんたちを専門に看てくださる獣医師の先生を見つけていない。緊急にお願いした先生には「日本猿は経験がなくダメです」と断られた。チョロ松の状況は一刻を争う危険な状態なので「このお猿さんは絶対暴れないし、安全なのでとにかく助けて下さい」と死に物狂いでお願いしたが「無理です」の一言で断られた。藁をもすがる思いでお世話になっている東京の三鷹獣医科グループの小宮山先生と運良く連絡がとれた。河口湖から一時間半、東京三鷹市まで走った。すぐさま診察してもらうと肺炎が悪化し体力も落ちていた。通常12キロ近くあった体重が10キロをきり痩せ細っていた。抗生物質を投与する前に点滴を打って、まずは体力を回復させないといけないと言われた。普通、お猿さんたちは全般的に病院を嫌うし極度に獣医師を怖がり病院に入ることだけでも嫌がる。点滴を打つとなると数時間おとなしくしていなければいけない。ほぼ不可能なのだが二代目のチョロ松だけは幼い時から病院に入ることを嫌がらず暴れることがなかった。これは本当に稀なことである上にチョロ松にとっては不幸中の幸いであった。普通に治療が可能であったので点滴を打つ1時間以上の間もおとなしく落ち着いて治療に専念することが出来た。約10日以上にわたりチョロ松は生死をさまよいながらも奇跡を願い、夕方、立川事務所から約1時間かけて三鷹市の三鷹獣医科グループまで毎日通院した。ある日の通院後小屋に戻すとチョロ松が置いていたみかんに手を伸ばした。大好物の「どら焼き」さえ食べようとしなかったのに、水気の多い食べ物をほしがるようになった。食事をとると野生の力がよみがえったのか動きも見違えるように活発になり回復がみえてきた。先の見えない約一ヶ月にわたった闘病生活にピリオドを打つことが出来た。

 周防猿まわしの会がさらなる発展を期して建設する河口湖猿まわし劇場の舞台にチョロ松と共に立つことができる。その舞台にチョロ松を立たせるために困難を承知で頑張ってきたのだ。大ピンチを克服してくれて本当にうれしかった。お猿さんたちの怪我や病気はつきものだ。そんな時頼れるのが獣医さん。これ以降、阿蘇と河口湖両劇場ではどんなピンチの時もすぐさま対応していただく担当医を見つけることができた。心強い先生達である。