第四十三話 ・・・ついに決断する。

 関東劇場候補地探しに長男と三年間奔走した。候補地としての条件が整わず断念する案件が続いた。借地でなく自前の敷地に劇場を建てることが前提なので、ある程度広さも必要だし、集客のためのアクセスが重要、飼育環境を整えるには明るく太陽光が降り注ぎ、樹木の潤いも必要だ。そのような条件をクリアーする物件に出会うことなど大抵はあり得ない。多少の妥協もいるのかと思っていた。

 以前、静岡県で候補地を探していた時に釘をさされたことがあり今でも強く印象にのこっている。山梨県、特に富士五湖地域を「郡内」と呼んでいるがここに劇場を建てることは避けろという忠告を繰り返し受けたのだ。忠告はありがたく受けたが、私は先入観も偏見も持つことは無かった。頭の片隅に記憶は残ったが、候補地探しという面では忘れることにした。その「郡内」に位置する山梨県河口湖に信じられないほどのロケーションでこんな場所がよく残っていたなというほどの土地に出会うことになる。

 河口湖町(現在は合併して富士河口湖町)は河口湖を中心に船津、浅川、小立、河口、大石という地区からある。最終的に候補地を決めるために観光調査した当時は船津、浅川という地域に旅館、食事処、お土産街がほとんど集中していて河口湖町の観光において要になる地域であった。注目した河口地区には貸し別荘が建ち観光施設も徐々に進出しはじめていたが、観光地としての趣はなかった。農地が点々として土地の所有者も細かく分かれていた。ところが平成6年に湖畔沿いに湖北ビューラインと呼ばれる道路が繋がった。この湖北ビューラインからの眺めが素晴らしい。そして、その真ん中にある土地を紹介されたのだ。敷地の前には富士山と河口湖しかなく、富士山の頂上に向かって伸びる山腹のラインは数々の名画に残るまさにその姿であり、画家や小説家が題材にしたものだ。湖北ビューラインがつながったことによって船津、浅川の旅館、お土産街から河口、大石をつなぐ観光アクセスが充実されることで大きなチャンスを生むと私たちは考えて最終的にこの地を選んだ。偶然ではあるが猿まわし劇場が誕生する前後に河口地区は文化・芸術性に富む観光施設の進出が続いた。

 これで周防猿まわしの会は本家山口県を本社に構え、西に熊本県の阿蘇猿まわし劇場、東に河口湖猿まわし劇場を持つこととなった。「たかが猿まわし、されど猿まわし」と古川顧問から評されたが、伝統芸能、大衆芸能として二大観光地に劇場を自前で保持することができるのだ。活力溢れる若手調教師もそろいそれぞれが勇気と希望に満ちあふれ語り合った。阿蘇の劇場が九州及び西日本圏で1500万人の市場なら、関東圏はその数倍の大市場である。阿蘇以上の集客が期待できると、ところがそれが、我々の甘さ、大誤算であった。大市場をめぐる競争は熾烈を極めることを後に思い知らされた。兄に足元を掬われ、失われた20年という大不況が、無知で「能天気」の我々から体力を奪っていったのだ。

 そのことを言いたかったのか、生前の親父から「富士山は日本人の憧れであり偉大だ。富士山に劇場を構えるには到底無理があるのお。」と語っていた。それなのに富士山と共に歩めるというおごりがあり親父の語っていたことを忘れて夢に突き進んでいった。親父の命日は2月23日、「富士山の日」だ。そして、周防猿まわしの会のピンチに手を差し伸べてくださったのは誰あろう「郡内」の皆様であった。

 平成6年12月8日(土)、河口湖の不動産事務所にて契約が成立しいよいよ河口湖猿まわし劇場実現に向け始動することになる。契約後、私が現地責任者に任命され、チョロ松と共に東京事務所から河口湖へ拠点を移し劇場建設に動いた。

 しかし水面下でこれほどの力を持つことになった周防猿まわしの会の主導権を掴みたいと思う人物が密かに野望を実行に移そうとしていた。社長である長男や私、古川顧問など沢山の応援団はツユも知らず劇場実現へまっしぐらに進んでいた。


 この回を書き終わろうとしていた9月26日まさにその時に、名工建設株式会社の小林様から電話をいただいた。河口湖劇場へご退任の挨拶に来られたのだ。不在のため、その場から連絡を下さったのだが、この方こそ我々の河口湖劇場進出と建設、その後のアフターケアーで18年間の長きにわたり、親身になってお力添えを下さった方だ。寂しい思いと共に感謝の気持ちでいっぱいになった。