第三十九話 ライバル現る!

 1992年、年の瀬。日本経済のバブルはすでに崩壊し、日本国内も国民も混沌としていたが、その中にあっても周防猿まわしの会の勢いは持続しバブル絶頂期が続いていた。間もなく迎える年は十二年に一度の申年。更なる飛躍のチャンスを掴まなければいけないという思いが強く自信に満ちた前途を信じて疑わなかった。当時、猿まわしと言えば「周防猿まわしの会」であるという世間の認識もまもなく変化を迎える最後の段階であったことなど後になって気づいた。それまでは独占状態であったので奢りがあり安住もしていた。黙っていても年末年始の特番の出演依頼も殺到し、順調に番組の収録も進んでいた。大晦日には夕方から年越しの6時間以上にわたるカウントダウンの生番組の出演も決まっていてそんな浮ついた私たちは、猿を使ったパフォーマンスで新時代を切り開く集団がいたことなど知る由もなかった。

 新年を迎え、私たちが出演していた裏番組で某集団がマスコミを席巻していた。私も噂には聞いていたが実際目のあたりにして驚いた。お猿の学校という斬新なコンセプトで世間の注目を集め、評価はその視聴率にも反映し、その存在は瞬く間に日本全国に広がっていった。「たがが猿がたくさんいるだけで、所詮、猿を使う業界の一発屋だろうからそんなに長くは続くわけがない」くらいにタガをくぐっていた。ところがお猿の学校はバブル崩壊の暗い世相の中で、日本中に明るさとお猿さんの生み出す自然な笑いを提供し一瞬にして国民のハートをがっちり掴み、その裏であぐらをかいてきた「周防猿まわしの会」は業界トップという地位から陥落した。日本に猿まわしが復活して十数年間、独占企業でやってきた「周防猿まわしの会」の一時代は一瞬にして終わった。その時の虚しさ、そして国民から忘れられていく残酷さ、悔しさは今も鮮明に私の心に残っている。先代村崎義正が命を削ってまで復活させた功績でさえ、瞬く間にかっさらって行ったのだから‥。

 ところで、今でも某集団が披露したお猿の学校、つまり同時に多数のお猿さんが同じ舞台に平和的に立つことが可能か、謎が解けないでいる。野生の猿達は群れや縦社会の習性があり、複数の猿達が同時に同じ舞台に争いなく存在し、芸を見せることは不可能に近い。それは周防猿まわしの会の認識であるので、ただしくいうと不可能とは言い難い。なぜなら、実際に多数の猿達が一緒に舞台に上がっていることは間違いないからである。どうしてそれが可能なのか。我々にはただただ不思議である。

 こうして老舗の我々の前に強力なライバルである同業他社が登場した。周防猿まわしの会の影響力や活躍にヒントを得て、新しい集団や個人がこの業界に参入することは自然なことである。その後、周防猿まわしの会を退職した調教師が習得したノウハウを勝手に利用して開業することも頻繁に発生し、一時は日本に100以上の個人・集団が猿を使った芸能を行う、過当競争の時期が到来した。

 ライバルなくして芸能のレベルアップはない。切磋琢磨してこそが望ましい。我々はそれを受け入れるしそうなって本当に良かったと思っている。お客様が選択できるサービスが様々存在することは悪いことではない。ただ、我々は何者であり何を必要とされてこの仕事を続けているのかお客様目線で試行錯誤をすることにした。

 悩んでいる暇はない。よくよく考えるべきであるがくよくよしない。村崎家の姿勢として立ち止まって考えることはしない。行動を起こし、身体を動かしながら、頭の回転をあげ、ふと気づいたことを周囲に相談し経験を積み重ねていく。動くと新しい視界が広がってくるものである。こうして大ピンチにも、胸の動揺は奥にしまい、動き始めた。同業他社が乱立する時代の中で周防猿まわしの会の存在意義を我々自身が探らなければならない。

 チョロ松物語はようやく半分に差し掛かかりました。この三十九話の当時、私は27歳の世間知らず、破天荒まっしぐらの生き方をしていた。現在、48歳を直前に控え、相変わらず世間知らずの自由奔放な私と相方チョロ松ですが、20年間続いた周防猿まわしの会の長いトンネル時代を厳しかったこと、楽しかったこと今まで通り嘘偽りなく今後も書いていきます。