第三十七話 ニューヨークからボストンへ

 総勢40名の全スタッフがニューヨークへ集結した。周防猿まわしの会アメリカ公演の目玉となるリンカーンセンター公演が目前に控えていた。マンハッタンにあるスタジオを借りて段取り稽古がおこなわれたが、チョロ松は早めにニューヨークへ来たので十分な調整ができ調子よかった。ただ、私は昼食がほぼ毎日ハンバーガーだったおかげで、アメリカ公演以降20年近くハンバーガーが食べられなくなった。

 そして公演当日、リンカーンセンターでのゲネプロ後に演出家グループからまたもや台本変更が伝えられた。共演する忍者役の方が顔を出していると忍者とイメージしにくいので顔全体を隠すことになった。私はすぐさま「これはまずい」と思い演出家に「顔が隠れているとチョロ松が怖がってしまうのでチョロ松が本番で確実に演技出来るようになるための稽古時間を作ってほしい」と申し出た。実は今までの芸術祭、池袋サンシャインでの舞台の時も共演者が顔を隠すとチョロ松が怖がりどうしてもうまくいかないということで変更させてもらっている経緯があった。しかし今回は聞き入れてもらえない上に演出家からはさらに驚きの発言が飛び出した。「今はそのためだけの時間はないから自分たちで相談して練習をやってくれ」、しかも「本番前で舞台上は他の段取りで使用できないから空いているスペースでやってくれ」と言われたのだ。共演者の方にお願いして稽古に付き合っていただいたもの本番とまったく同じステージで台本通りの稽古をしなければ何の意味もない。結局は納得のいく稽古も出来ず不安を抱えたまま本番を迎えることになった。

 覚悟を決めてチョロ松といざ舞台へ。しかし舞台に出た瞬間、拭いきれなかった不安は的中した。下手(しもて、客席から見て舞台の左側)より忍者が登場するやいなやチョロ松は驚いて上手(かみて、舞台の右側)袖に逃げてしまった。想定していた展開ではあったがチョロ松は舞台に戻ろうとすらしない。「チョロ松、頼むから何とか頑張ってくれ。俺たちコンビの不甲斐なさでアメリカ公演を台無しにするわけにはいかないんだ」という願いも届くことなく、ただ舞台と袖をチョロ松は逃げまわった。「最悪だ…」と私の気持ちも切れかけていたその時客席から大歓声が沸き起こった。観客の反応は私の思いとは正反対で大爆笑の渦に包まれた。お客様にはチョロ松の逃げまわる姿が芸に見えたのかわからないが、怖がって忍者から逃げまわるというハプニングが奇跡を起こしてくれたのだ。緊張続きの舞台が和やかになり結果としてこのシーンで客席の心を掴むことができたと後々関係者から聞いた。このチャンスを活かさなければという思いで気持ちを切り替え残りの出番に集中しチョロ松と私は平静心を取り戻すことができた。意外にも長く重いリンカーンセンターの公演はあっさりと終わった。公演が終わると演出家グループ、出演者、スタッフは如何にも公演が成功したかのように皆一様にハイタッチを交わし握手したりする光景をみたとき本当に信じられなかった。はっきり言って私の気持ちは白けきっていた。みんなの喜びようが私にはまったく意味がわからなかった。「アメリカまで来て恥ずかしくないのか。チョロ松は道具じゃない。こんなお猿さんが輝かない舞台をやって情けない。」と叫びたかったぐらいだった。その後私は誰と会話することもなく打ち上げにも参加せずホテルに戻った。

 数時間経っただろうか心配して古川顧問が部屋を尋ねてきた。「五郎、お疲れ様。何か私で聞けることであれば一杯飲みながら話しでもしようか」と誘われ、ようやく緊張感から解放され溜めていた思いが爆発した。「私の目指す猿まわしはお猿さんたちが主役でありお猿さんたちを輝かせたいのです。人間が主役の舞台で添え物のような役割を演じさせられて、おまけに未熟な人間の芸で喜んでいただけていない。このニューヨーク公演で私はチョロ松に恥をかかさせてしまった。今後もこの考え方が変わらないのであれば周防猿まわしの会に私の居場所はないのです。」古川顧問はひたすら聞き役に徹し黙って私の話に耳を傾けてくれた。そして「五郎、お前の目指す猿まわしの舞台作り、私で協力できることであれば手伝う。明日から始まる後半のアメリカ東海岸の旅に付き合うよ。」と言ってくださった。当時からわがままな私に古川顧問は真摯に付き合い受け止めてくださっていたことで支えられ救われてきた。あわや、苦いアメリカ公演に終わってしまう危機に直面したが、逆に自分の歩んでいくべき猿まわしの道がおぼろげながら見えてきた。猿まわしを取り囲み見物する人垣を「輪の中は童話の国」と例え猿まわしの魅力を楽しそうに語っていた父義正の姿が私の中から離れない。「お猿さんが主役の猿まわしでいいんだよ!」と響いてきた。

 翌日、プラッツアー、マネージャーG氏、古川顧問と私は、新たな出会いを求めてチョロ松と共にボストンに向け出発した。