三十六話 「Goro! ここは日本じゃない。」

 NCA(日本カーゴエアーライン)はアメリカJFK空港に向かって日本を旅立った。機内の私は矢沢永吉の曲を大音量で聞きながら私のバイブルとも言える矢沢永吉の「成りあがり」を読み直していた。中学一年生の時に矢沢永吉の音楽に出会ってからは辛い時も苦しい時も必ず矢沢永吉の音楽に救われた。矢沢永吉はたくさんの名言をファンに残してきた。アメリカ公演に向けても教えてくれた言葉がある。「人は一瞬のハッピーでまた走ることができる。」芸術祭、池袋サンシャイン公演、そしてアメリカ公演と続く中でこの言葉にどれほど励まされたか。そして矢沢永吉も挑戦したアメリカに日本の伝統芸能として一路ニューヨークへ向かった。

 今回は貨物便でのフライトのためアンカレッジを経由して17時間に及ぶ長旅である。チョロ松達も慣れない飛行機の移動で食事や飲料の不足等の不安もあったが、1時間おきにチョロ松達が預けられている機体下腹部の貨物室に行くことが許されていて状況が確認できたためより安心なフライトになった。アラスカ側から縦断してのフライトと聞いていて壮大なアメリカ大陸の景色もひとつの楽しみであった。夜明けが始まって4、5時間近くは真っ白な雪景色だけが続きがっかりしていたが、五大湖が見えた時にはじめてアメリカに来たんだという感動、絶対にアメリカ公演を成功させなければと思い緊張感がわいてきた。

 長時間のフライトにもかかわらずチョロ松達は疲れもなく元気であった。到着してすぐにニューヨーク滞在の拠点となるハリソン(マンハッタンから車で約40分)に向かった。ハリソ ンという地域は別荘が立ち並ぶ地域で、滞在する家もこの地域の中学校の校長を務めているジョンさんという方の別荘をお借りした。ジョンさんが私たちの到着を迎えてくださり、挨拶がわりにチョロ松の芸を披露した。とても喜ばれ、滞在中も一緒にバーベキューをしたりして周防猿まわしの会のアメリカ公演を心から歓迎して下さった。

 アメリカ滞在中は二人のボディガードと通訳が常に同行していた。ひとりは、アーノルドシュワルツェネッガーの専属のボディガードを務めていた。トレーニングは歯磨きのようなものだと自慢気に言っていたが、見かけのおっかなさとは違い、ランチのフルーツをチョロ松にと心優しい一面もあった。もうひとりは、現役のニューヨーク市警の無口なポリスマンで一切干渉しない、身長も2メートル近くはあったが、正反対の二人のボディガード、本当に心強かった。そして通訳兼ガイドとしてアメリカ公演の最後までチョロ松と私に付き合ってくれたプラッツアー。サンディエゴ大学の講師を務めていたが、大柄でうっすら無精髭をのばしていて、ハリウッド映画に出てきそうな体格はスティーブンセガール、性格はジャンレノ?(ちょっと良く言い過ぎたかもしれません)。見かけはさておき、プラッツアーはニューヨークを代表するダイヤモンド商の御曹子で、そんなそぶりも見せないプラッツアーは格好よかった。いつも私が日本流儀で行動するので怒っていた。スパゲッティを音をたてて食べると「Goro! ここは日本じゃない。」ハイウェイでちょっと制限速度を超えると「Goro! ここは日本じゃない。アメリカはヘリコプターで追っかけてくる!」、二言目には「Goro! ここは日本じゃない。」が口癖で、滞在中100回は言われたかなと思う。

 このハリソンを拠点にリンカーンセンターの公演まで稽古を進めながら、宣伝活動に出かけ、アメリカの環境に慣れるため色んなところへチョロ松と足を運んだ。マンハッタンの養老院に行った時は、30名ぐらいのおじいちゃんおばあちゃんにパフォーマンスを見せたのだが、ほとんどの方が寝たきりの方で、おまけに私の英語が下手過ぎてまったく反応もないので喜んでもらえたかなと心配していると、いつも私には辛口で怒ってばかりのプラッツアーが「Goro!みんな涙ぐんで喜んでいたよ。」と言われて本当に嬉しかった。少年院にも足を運んだ。いざ舞台に出たらステージと子どもたちの間に鉄格子が張られていてちょっと残念な気持ちもあったが、子どもたちはチョロ松の芸に大フィーバーして喜びを表現してくれて本当にいい経験が出来た。
 セントラルパークのシープメドウにてパフォーマンスをした。シープメドウは、あのビートルズが野外コンサートを行って以来、一切許可がでなかったことで有名である。そういう特別な場所であったが周防猿まわしの会のパフォーマンスに許可がでた。マンハッタンをバックによく映画で見かけるセントラルパークの素晴らしいロケーションで500人以上のニューヨークのみなさんが集まり周防猿まわしの会のパフォーマンスを楽しんでもらった。その時、今だに忘れられないシーンがある。勘平・Dコンビが周防猿まわしの会の古典的な演目を演じたワンシーン、勘平のお父さんが猟師に撃たれて亡くなるというくだりがあり、Dさんが慣れない英語で「Kanpei's father died!」と、そこにいたアメリカ人のほとんどが顔を覆いながら「OH!・・・・NO!・・・・」と反応したときにアメリカ人の豊かな表現力は当然のことながらDさんのことばを越えてつながる才能に舌を巻いた。





周防猿まわしの会によるアメリカ公演略歴

 1992年9月(平成4年)に実施、初の海外公演をアメリカ公演として実現した。期間は約一ヵ月間で全米各地を訪問した。参加したコンビは4組(芸猿は、勘平、次郎、ほたる、チョロ松)、スタッフは劇場公演もあり最盛期総勢50名にのぼった。セントラルパーク、ワシントンスクエアーでの大道芸、少年院への慰問、養老院への慰問、ニューヨーク日本人会招待の晩餐会、リンカーンセンターでの劇場公演、首都ワシントン、合衆国上院に招待されての公演、サンフランシスコ市表敬訪問と市主催の晩餐会、ブラウン大学、ハーバード大学での公演、ボストン市、ケープコート島訪問で交流を深めた。

 なお、この公演の実現のために、周防猿まわしの会の顧問であった古川さんを通じて依頼した在日米国人コーディネーターB氏の協力により、米国での公演活動をするための特別な滞在ビザを取得することができた。また、B氏は米国でも有数の広告代理店キャンバー社とも連携して米国内での公演活動許可、訪問先確保、動物の海外渡航と帰国に関する最短での検疫体制要請、米国内での動物飼育管理に関する許可と検査、訪問先での安全確保のためのボディガードの採用、アメリカ公演の写真記録を残すための写真家との契約などに取り組んだ。また、一ヵ月前にはB氏と周防猿まわしの会が連携して準備をするために周防猿まわしの会側要員としてG氏を派遣した。出発を控えた時期には舞台製作グループメンバーの離脱という混乱があったが、古川さんの度重なるアドバイスと尽力によって乗り越えることができた。

   それだけでなく公演実現には様々な壁があったが、俳優の小沢昭一さんや各界を代表する方々の推薦状を添え、様々な働きかけの結果、米国大使館や米国政府各機関からの信認を得ることができた。首都ワシントン、キャピタルヒルを訪問して上院主催のパーティーに出演するために、周防猿まわしの会を日本の正式な伝統芸能団体として認めるとの上院の認定書をいただくことができたことは大変光栄なことであった。