第三十五話  まな板にのせられた「Dさん」

 1992年6月下旬、チョロ松と私は埼玉県川口市内の川口文化ホールにいた。9月に控えたアメリカ公演で上演する舞台をつくり池袋サンシャイン劇場で披露する。タイトルは「スーパー猿芸」、その最終的な稽古をしていた。公演は芸術祭賞をいただいた勢いで気負わず臨めば何の問題もなかった気がするが川口での稽古は何か重々しい不穏な空気に包まれていた。

 それもそのはずで、公演を翌週に控えているにも関わらず演出グループから台本の内容が次々と変更されていくのである。初の海外公演であり、アメリカで猿まわしを楽しんでいただくには試行錯誤は当然あるけれど、芸術祭賞を受賞したとたんに何を勘違いしたのか本来、猿まわしの舞台として進むべき方向性とは違う方向へ向かい始めた。アメリカ公演には重岡フジ子先生は出演されない。第二幕「義経」物語の主演は芸猿次郎とT氏。芸術祭でも課題となったあの第二幕が公演のメインになり、それを演出グループのリーダーであったT氏の意向で台本が変わっていく。不安感は私たち出演者のみならず客演する役者さんたちにも伝わり不満が続出した。そんなとき追い打ちをかけるように驚くような発言が伝えられた。「台本を変更します。源氏と平家の戦いのシーンでダンスをとりいれたので今日、明日と稽古をしてもらいたい」。当然、出演者・スタッフの反応は「誰が・・・?」というのは言うまでもないが。ダンスの稽古をするのは芸人である私とDさん、そしてまったく意味が分からなかったが客演で殺陣(たて)を演じてくださる澤村剣友会の皆さんにもダンスの稽古が求められた。その後、演出サイドからはプロのダンスの先生が指導に来られるとの説明があっただけで、「なぜこの公演にダンスが必要になったのか」という台本変更の意図すら説明がないうえに、T氏はその後のダンスの稽古に立ち会うことすらなかった。その時は誰も状況を理解することができずその場の勢いだけで何となく稽古が始まった。ただダンス稽古が進むにつれ先生の稽古もヒートアップして求めることが厳しくなっていく。熱心に指導してもらっているにもかかわらず私は「所詮素人なんだし、しかもダンス未経験の俺たちに2、3日で覚えるというのには無理がある。結局のところ自分のやるべきことは主役であるチョロ松がきっちり調整できていい舞台をやってくれればいいんじゃないの」ぐらいの冷めた気持ちでダンスの稽古に向かっていたので、真剣にダンスが上手になってほしいと稽古をつけてくださった先生との温度差が広がり、上達することもなく、当時を振り返ると先生には本当に申し訳ないと思っている。

 そして芸術祭、池袋サンシャイン劇場公演、アメリカ公演と常に一緒に歩んだ芸人Dさんは本当に苦しんでいたと思う。T氏は舞台全体の台本制作、演出と、主演コンビで演出グループのトップであるにもかかわらず、相方の次郎の日常の世話さえも私や人にまかせっきりで、テレビ等の取材が入れば、一緒に食事したり、風呂に入ったり、その時ばかりはいかにもいつも次郎の世話をしている印象を与えようとした。Dさんは集中的にまな板にのせられて理不尽に指導される。演出しないといけないからとT氏がすべき主演の演技稽古の代役はDさんに振られ、上手くないからと指導される。お猿さん主役の舞台でなければいけないものが稽古の段階からお猿さんが必要になっていないし、そんな台本・演出に対してDさんは苛立ちをこらえていた。しかしT氏に意見する考えや言葉も持てず、ただ言われたことだけをやっていくことしかできなかったその歯がゆさを近くで目撃し理解していたのだが私はフォローすらしてあげることができなかった。

 このエッセイは私の相棒である芸猿チョロ松を中心にした物語であるべきなのだが、池袋サンシャイン劇場公演の内容やこの当時のチョロ松のことを思い出せない。なぜならお猿さんが必要でない「スーパー猿芸」を当時の周防猿まわしの会は許してしまったからだ。T氏の夢の先に周防猿まわしの会の発展を願ったが誤っていた。お客様が観たいのはお猿さんが主役の芸である。その目線から逸脱した路線に未来はない。その証拠に、歌舞伎風の猿まわしやそもそも「スーパー猿芸」など当時目指した公演内容は評価されることなく消えていってしまったままである。出演者だけでなくスタッフを大事にしたと評判の中村勘三郎さんのドキュメントを拝見すると、舞台関係者にどれほど敬意を表していたかがわかる。語り草になり、惜しまれる舞台や俳優さん達が育っていく過程をみるたびに、当時の周防猿まわしの会の未熟さが浮き彫りになる。お猿さんを主役にできない、出演者に説明もない、客演者から不満続出、そしてダンスの先生への失礼、演出家は稽古に参加しないなど、思い出すたび恥ずかしい状況であった。良い舞台ができるはずがない。舞台は総合芸術であり、舞台の評価はそれに携わった皆さんへのお客様からのご褒美である。強いて言うならば、T氏は周防猿まわしの会の未来も自分の夢も必死に追い求めていたに違いないが、全体を統括する父義正がいなくなり、T氏にアドバイスしたり意見したりする存在が未熟であったためT氏の独走に頼らねばならない状況で大きな企画をどんどん推し進めていったことだ。しかし、その廻り道も猿まわしの芸を確立していくために通らなければならない試練だったと思う。

 池袋サンシャイン劇場からアメリカ公演終了まで、Dさんも私も叫びたいほどの苦い思いから解放されることはなかった。そればかりか、自分にとって大事にしていたチョロ松のプライドを笑いものにされる事態が起こった。