第三十話 見えない糸

 新人の調教師見習いが増えるようになって私の負けず嫌いの種火に火が点いた。二代目、チョロ松Jrとは本当によく練習した。休憩をはさみながら一日中稽古することもあった。当時の私が理想としていたお猿さんの芸は、とにかくどのお猿さんより高く飛び、そしてどのお猿さんよりも遠くへ飛ぶ、そしてどのお猿さんよりスピーディに動くことであった。Jrはそんな私の理想に近づけるだけの体力と精神力を兼ね備えたお猿さんであった。阿蘇猿まわし劇場の舞台と客席は1.5メートルあるが竹馬に乗ったまま軽々と飛び移るなり段差の客席をポンポンとかけあがってゆく。跳躍力、目標に着地する確実さ、そして脚力は鞍馬山の義経を連想させるほどであった。
 調教師のしゃべりや表現力で漫才のように笑わせる芸に人気が集まる中で、人前で笑いをとれるほど器用でもなかった自分はまずお猿さんの輝きを大事にしたいと思っていた。それに、人間の漫才のようにスピードを求めるあまり、笑いの代償としてタナ(お猿さんをつないでいる紐)を短く持ってしゃくる調教師が増えて同じことはしたくなかった。笑いにつながるといえば、ソフトボールをチョロ松Jrに持たせ目の上にくっつける「目の上のたんこぶ」というネタをそのころやっていた。二日酔いのネタも好きだった。全く演じていなかったわけではないが、笑いも織り込んみバランスのとれた構成の演目を本格的に目指すのはもっと後になる。小手先の笑いに走らないでお猿さんの輝きを大事にするまわり道を選んだことで猿まわし芸の美しさ楽しさを幾重にも追求表現できる現在があるのではないかと思う。

 1991年春、周防猿まわしの会は文化庁主催の芸術祭に参加する方針を建て実現に向け奔走した。大道芸で生きてきた周防猿まわしの会が阿蘇猿まわし劇場という専用劇場をもってからは、大道芸から舞台芸への昇華を如何に実現するかが課題となっていた。大道芸の猿まわし芸を単純に舞台へ載せたばかりの頃で、舞台芸としての蓄積がはじまったばかりであったから、国を代表する「舞台芸の祭典」への出演は背伸びした大それた目標であった。

 動物芸として初の参加希望、そもそも大道芸であった猿まわしの参加が認められるかそれが第一難関である。その件について水面下で文化庁に問い合わせたところ「参加を歓迎します。」という回答をいただいた。後にわかったことだが、山口県で周防猿まわしの会による猿まわしの復活運動がおこったことに強い関心とそのスタイルに期待をしてくださっていたのだ。多くの応援団の支援で復活の意義が伝わっていたことに深く感謝している。周防猿まわしの会としては昭和期最後の猿まわし調教師である重岡フジ子さんを広く知っていただくことができるし、村崎義正が後世の子供達に見せたいと希望した復活猿まわしの力強い生命力を伝える場にもなることを願った。そこにチョロ松Jrと私も参加することになった。お猿さんの輝きを表現するために欠かせないコンビとして選んでいただいたと後で知り、喜びと共に気合も入った。

 第二関門で芸術祭参加に暗雲がかかった。参加公演規定では10月中に東京都23区内にある劇場もしくはホールで公演時間90分以上の演目をおこなわなければならなかった。大抵の公演は一年前からホールを押さており、一年以内では探すのは手遅れであった。
 というわけで芸術祭参加を決めたものの夏が近くなっても、まだ公演日程、公演ホールが決まらなかった。残念ながら今年は断念という流れになった頃、私は兄(現在の社長)に呼び出された。そう簡単に引き下がらないのは義正譲り、兄は一見難しいと思えても角度を変えて可能性を探る。ずぶの素人である私にホールを探せという。ホールを借りての公演など経験したことがない私にはまったく見当がつかなかったが、とにかく専門雑誌を買ってきてしらみつぶしに探し始めた。経験もなければ先入観もない若者は何をしでかすかわからないが、可能性も秘めている。
 まずは人を集めやすいのは都心ではないかと考え新宿区、渋谷区、世田谷区あたりにターゲットをしぼった。パルコ劇場、新宿シアタートップスは予約で埋まっていた。次に主役であるお猿さんが気持ちよく芸を演じることができる舞台、なお且つどの客席からでも主役であるお猿さんがしっかり見えるホールでなければいけないという考えのもとにホールを徹底的にさがしまわった。青山円形劇場、「こんなホールでやってみたいな」と思う素晴らしいホールはあるが料金が高すぎて合わない。「ホールがよくて料金もリーズナブルで、ここであれば」と問い合わせしてみると申込みが遅すぎて空いてない。
 兄からは、「諦めるな」。都心にこだわるのでなくもっと視野を広げて探したらどうかと提案され、北区、足立区、台東区、そして墨田区とエリアを広げること数十件目、「猿まわしの舞台にぴったり」と思えるホールに出会うことができた。このホールはほしかった3日間連続の借用が可能で借用料も手が届く。京成線曳舟駅を降りて徒歩1分の場所にある墨田区にある曳舟文化センターであった。私が見つけたのも本当に偶然なのだが、この曳舟は猿まわしにとってゆかりの地であった。曳舟と報告した瞬間兄は絶句した。驚いたことに、大正昭和期に猿まわしの一団が常宿、拠点としていたのが押上、曳船界隈であったのだ。昭和期最後の猿まわしであった重岡フジ子さんは押上から上野公園に出没して猿まわしを行っていた。村崎家の先祖もここを足掛かりにしていた。何とも言えぬ猿まわしの歴史の奥深さを感じたのを憶えている。すぐにホールが空いている日を押さえて公演日を決定した。1991年(平成3年)10月7日(月)8日(火)9日(水)の午後7時開演、場所は曳舟文化センターである。
 今年、この押上駅に東京スカイツリーが開業したことで有名になったがまさにここに我々はさまよいながらも導かれた。