第二十七話 反抗

 地元の高校に進学しさらに大学へという希望は絵に描いただけの夢で終わらなかった。五教科で250点中、最初は取れて60点だったが、入試直前には180点をとるまでになっていた。家族は当然のごとく、友人、先生、誰もが無理だと思っていた地元の県立高校へ進学する道がこうして開かれた。振り返ってみると、小学校5年、6年の時、真冬に半袖半パンで通学したことが自信になり大きく人生を変えた。自分が目標を持つと、親父がいつもにこやかに見守ってくれたことが力になった。文武両道を重んじる高校で、朝は6時前に起床し7時過ぎから連日夜9時過ぎまで甲子園目指しての練習、部活と学業を両立しながら高校生活を謳歌した。

 高校生になっても怖かった親父に反発するなど考えられなかったが、学校や社会に対しては堂々と反抗した。高校に入学したばかりの頃、鉄腕アトムの様な剃りこみをいれ眉毛も剃っていた。帰宅する頃にはいつも親父は就寝していたので、これ幸いに剃りこみはどんどんエスカレートしていった。そんな時にかぎって親父は起きていて、まずいと思い帽子を深くかぶっていると「義則、家に入ったら帽子を脱がんか」と言われ、バツ悪そうに帽子を脱ぐと私の剃りこみと眉毛を見て半笑いしながら「なんか?お前の中途半端な眉毛は?剃るなら剃る。情けない平安時代の公家風の眉毛は止めんか」と言われる始末、この程度の抵抗を軽くあしらわれるのだった。

 高校三年の夏、夢にまで見ていた甲子園出場は叶わなかったが、指導者として甲子園に行きたいと考えるようになった頃、親父から高校卒業後の進路について話を切り出された。「今まで、お前のやりたいことはやらせてあげることが出来たと思うちょる。それでこれからのことじゃが、猿まわしの発展のためにもお前自身のためにも猿まわしをやるべきと思うがどうか」と。意外な展開で話を持ちだされたため「俺は猿まわしはやらん。」とだけ答えると親父も思いもよらぬ返事が返ってきたと思ったのか「猿まわしを継がんのんじゃったら、この村崎の家から出て行け」と言った。今まで私の考えや思いを尊重してくれていた親父が私の考えをまったく聞かずして一方的に考えを押し付けてきた。一瞬私も頭に血が上り「わかった。こんな家出て行っちゃるわ・・・。」と捨て台詞を吐いた上に食卓をひっくり返して家を出た。18歳にして親父への初めての反抗であった。行くあてもなく家を飛び出したが、一人暮らしをしている高校の友人Sくんのアパートへ転げ込んだ。家を出て一週間経った頃だったか、寧叔父さん(やすし、親父の弟、以後寧おじきと表記)が居所をつきとめ訪ねてきた。寧おじきは「義則、元気か。親父からカレーを預かったから届けにきた。またくるわ」とだけ言って戻った。今まで何の不自由もなく育ってきた私がちゃんと生活できているのか心配でしょうがなかったようだ。それからは毎日食材を届けてくれたのだが数日後、「義則、そろそろ帰ってもええんじゃないか。親父も相当こたえちょるみたいじゃけえ(山口弁で精神的に落ち込み反省しているという意味)」。寧おじき、そして間借りさせてもらった友人には本当に迷惑を掛けてしまった。二週間にわたる家出にピリオドをうち自宅に戻った。家出をしている間、寧おじきや、長男からの親父への説得もあり、私の当初の進路希望でもあったいずれは指導者として甲子園に行きたいという夢を実現するために親として協力をするということで家出騒動は納まった。今考えてみると親父が強引に猿まわしを継がせたかったのにはもうひとつ理由があったのではないか。私は高校2年の冬の野球の練習中に致命的な怪我をしてしまった。「第五腰椎分離症」という骨盤と腰椎をつなげている第五腰椎の骨折である。右足は麻痺し靴下も履けない状態で、毎日リハビリに通いながら試合の日には腰の痛み止めの注射を打ちながらも野球を続けさせてもらった。将来的には更に悪化する可能性もあると診断されていたため、家業である猿まわしを継げば安心して病気と向き合うことができるという親心もあったのかなと思う。

 親父が亡くなって23年が経ち、一度は断った猿まわしの道を歩んでいる。親父が生きていたときは包み込むような愛情で守られていた。何もかも親父に任せておけばよかった。司令塔である親父が亡くなってからも五男という気楽な立場で親父が残してくれたレールに乗って何となくやってこれた気がする。猿まわし復活の際に、まず、四男が後継者第一号として猿まわしの世界に入った。次男、三男、そして五男の私も続いた。長男も加わり、5人男ばかりの兄弟全員が揃った。兄弟一致団結して猿まわしを発展継承させることは親父の夢だったが、5人の兄弟が同じ会社で仕事をすることは大きな困難を伴う。兄弟でありやがて互いにライバルとしてよくも悪くも競い合うときが来る。避けられない宿命。そのことを承知しながら、5人兄弟に『兄弟仲』を求めた『無謀な願い』は村崎家においても波乱をもたらした。兄弟の列から早々と三男が去り、世間から注目を集めた四男は、争いを起こし周防猿まわしの会を離れざるをえなくなった。長く周防猿まわしの会の発展に貢献した次男も男気に溢れる生き方を貫き、会を去った。幼い頃から「兄貴の言うことは絶対に従え。」と親父に徹底的に叩き込まれ、理不尽に感じても兄貴をたててきた。五男という気軽さと4人の兄から受けるストレスと戦う日々であったが。気がつけば、長男と二人で周防猿まわしの会を背負っている。車の両輪となった今、責任は重い。

 しかし、迷った時には必ず1985年2月22日を思い出すようにしている。チョロ松とコンビを組み、猿まわしの調教師見習いになった日、親父は本当に嬉しそうだった。「息子を5人産んじょってよかった」と家業に加わった五男の私に対しての親父の喜びようは忘れることが出来ない。そして、チョロ松とコンビを組ませてくれたことが今に生きている。屈強にして人間に媚びることのない堂々たるボス猿チョロ松。中途半端な付き合いは許さない相方だったからこそ、奥深い調教の門に立ち謙虚な気持ちを今なお持ち続けることができているのだと思う。