第二十三話 チャンスの時にピンチあり

 阿蘇猿まわし劇場はオープン前の予想をはるかにくつがえす快進撃を続けた。親父の目標では3月26日から6月下旬までに5万人の入場者数と見込んでいたのがオープンして2ヶ月足らずの5月29日に達成。入場者7万人も6月25日に突破した。夏休みに入った8月3日には10万人目のお客様に来場いただき、8月20日には一日の総入場者数としてはオープン以来最高の3090人、初めての大入り袋(阿蘇猿まわし劇場は3000人以上の入場者で大入りとした。)が出た。

 8月27日には3811 人と大入りの記録を塗りかえていく。 そんな記録ずくめのおめでたい日にお客様が訪ねてきた。石川県金沢市でイベント会社を経営する昭和企画株式会社北陸支社社長の千代晃久(せんだい あきひさ)さんという方である。千代さんと周防猿まわしの会のお付き合いが始まったのは、まだ千代さんが愛知県の昭和企画株式会社名古屋本社にいらっしゃる頃である。私とはチョロ松とコンビを組んで間もない頃、名古屋市内でのショッピンッグセンターでのイベントに呼んで下さったのが最初の出会いだった。それ以前にも他のコンビには数回仕事をいただいていたが、初めてチョロ松を呼んでくれた時から大変気に入っていただけた。千代さんは「チョロ松・五郎コンビは、今まで見てきた他のコンビにはない芸の力強さがある。俺はチョロ松が有名であろうが無名であろうが関係ない。チョロ松の芸に惚れたからこれからはチョロ松をしっかり売っていくからな。」と言われ、その言葉通り温かく見守ってくださり、 時にはお客様目線での厳しいアドバイスもあり、チョロ松・五郎コンビを育ててくれた大恩人と思っている。

 そんな千代さんが家族揃って遠い石川県から熊本県の阿蘇の地まで表敬訪問してきてくれた日が、大入り入場者新記録の日でもあり、千代さん家族が到着するなり、親父さんみずから阿蘇猿まわし劇場の施設を案内し、「五郎は稽古をやっておけ、夕方来ればいいから。千代さんは俺に任せろ。」と気にする私をはねのけて、阿蘇の秘湯温泉にお誘いして大歓迎した。しかし、その2時間後に大変な事が起きた。「親父が温泉で倒れた」とお袋から劇場に一報が入った。親父は当時55歳、その日も午前中若手の調教師に引けを取らないぐらい迫力ある舞台を演じていたので信じられなかった。搬送先の病院に駆けつけたときには意識も戻っていたので安心した。原因は「脳血栓」である。今回は何とか一命をとりとめた。次に発症したら命の保障はないと最後通告ともとれるような医師からの厳しい診断であったが、そんな警告すら動揺するような親父ではない。命にも関わる病気だけに今回だけはオープン以来の疲れを癒すいいチャンスと思って十分休養してほしかったが、親父はじっとしていられなかったのか、 一ヶ月後には復帰してきた。

 チャンスの時と誰しも勢いに乗っていたときピンチの影が忍び寄っていた。さらなる災難がチョロ松と私に襲いかかる。9月下旬、広島県の「海と島の博覧会」のイベントに出演していた。公演前のリハーサルでチョロ松の動きがおかしいことに気付く。チョロ松が左手を使うことをすごく拒否するのだ。その時は目立った外傷なく無難に舞台をこなしてくれたが、翌日の朝になると左手の人差し指が腫れ上がり、思った通りの芸が出来ないまま舞台を終了した。すぐに近くの動物病院に行きレントゲンを撮ってもらったところ、人差し指の第二関節から骨がないと診断された。広島から帰京して当時の主治医の先生に診てもらったところ病名は「骨髄炎」であった。早急な手術が必要だということで、事情を説明してチョロ松指名のイベント出演を他のコンビに差し替えてもらい緊急手術をおこなった。第二関節から指を切断せざるおえなく引退という最悪の事態も頭をよぎった。幸いにして他への転移もなく手術後から2 週間のちにはいつものチョロ松らしさを取り戻し仕事に復帰することができた。野生の生命力や回復力はたいしたものであるが、手術後麻酔が切れ、自分の人差し指がないことに気付いたチョロ松はすごく悲しそうな表情をしていた。もう少し早く異変に気付いてあげられたらと後悔している。

 阿蘇猿まわし劇場がオープンして約7ヶ月の10月23日、年間目標としていた20万人の入場者数を記録した。目標より5ヶ月も早い達成だった。