第二十一話 猿まわしを栄える女性達

 阿蘇猿まわし劇場の建設も順調に進み、1989年3月26日オープンが決まった。夏過ぎには最初の団体予約が入った。12月上旬には東京事務所のメンバーも阿蘇に集結し、劇場の建設状況を見てまわる。劇場の概容がはっきりしてきてオープンが現実味を帯びてきた。オープン後の綿密なスケジュールの打ち合わせも行われ、チョロ松・五郎コンビも一ヶ月交代のローテーションで出演することになった。

 そんな年の瀬のある日、阿蘇進出に尽力いただいた塚元議員が調教師志望の女性を連れてきた。本来であれば女性という時点でお断りをするのだが塚元議員の紹介ということもあり面接だけは受けたが、やはり野生のお猿さんと向き合うためには女性の腕力やスピードでは難しいし危険を伴う仕事なのでお断りをした。しかし、その女性はあきらめずに何度も親父のもとへ足を運んだので、その熱意に応え入門が認められた。当時を振り返ると本当に驚きだったが、親父に認めた理由を聞くと、「ほんのわずかな可能性に賭ける決心をした。その可能性とは師匠のアドバイスを素直に受けて頑張ればどんな困難でも突破できる。いささかでも我流になれば失敗するけど・・・。」女性が調教師を目指すという話題は阿蘇猿まわし劇場のオープンと重なりマスコミに大きく取り上げられ追い風になった。

 復活後、初の女性入門者ではあったが、実はその当時周防猿まわしの会には女性調教師がいた。重岡フジ子という人物である。昭和最後の猿まわしとして東京中心に活躍していたが、昭和38年に廃業する。

 昭和52年、周防猿まわしの会が復活事業を開始するも調教法がわからず暗礁にのりあげた時には、親父は重岡フジ子に協力をお願いし、アドバイスしていただいたことがきっかけとなり、親父が調教法を解明し、科学的に調教法を確立することにつながった。重岡フジ子がいなければ猿まわし復活は実現しなかったかもしれない。重岡フジ子の調教は本物であった。さらに調教法だけにとどまらず、猿まわし芸能の豊かな継承者であり、周防猿まわしの会の一員に加わっていただき、大きな花を咲かせてくださった。タナ捌き、バチ捌き、間の取り方、口上、唄、見事であった。我々が学んで、学びきれないほど豊かであり、柔らかい姿勢の中に揺らがない芯を持っておられたからこそ、女性であっても調教師になれることを実際にしめされた。女性が調教師を目指すというバトンは、その後十数人もの女性志願者のチャレンジによって受け継がれ、成果と挫折を重ねながら、現代版の重岡フジ子誕生への可能性を高めつつある。時代が産んだとも言える重岡フジ子再来は難しいけれど、女性達は必ず願いを叶えるに違いない。そして女性調教師の活躍は現在猿まわしの舞台に欠かせない存在となり猿まわしを支えている。

 重岡フジ子さんは2009年(平成21年)2月11日、78歳で亡くなられた。20年前の2月11日は、親父が病に伏した日でもあり不思議な巡り会わせを感じた。私の中に生きる重岡フジ子さんについてはあらためて皆様にお伝えしなければならない。

 1989年、阿蘇猿まわし劇場オープンの新年を迎えた。チョロ松と私は、元旦より兵庫県宝塚市の宝塚ファミリーランドの10日間のイベントに、動物マジックの第一人者でもあるジャック武田さんとご一緒させていただいた。ジャック武田さんは数十種類の動物を扱いながらのマジックショーを繰り広げる。その中にピンクパンサーの愛称で人気者であったチンパンジーがいて、刺激を受けたチョロ松は落ち着きをなくし、いつも以上に調整に苦労していた。

 そして、1月7日、日本に重大ニュースが報じられた。昭和天皇がご逝去されたのだ。翌日からの公演は全て中止になり、1月8日、「昭和」から「平成」と時代が変わった。