第二十話 チョロ松とともに歩む

 覚えておられますか北海道静内町で撮影したSONYウォークマンCM第二弾「草原編」は、第一弾に続き、全国のお茶の間を騒がせた。それは建設途上にある阿蘇猿まわし劇場にとっても追い風となった。来春のオープンにそなえ1988年7月1日付で九州事務所を開設し、団体予約の受付開始や観光関係組織への訪問説明など幅広く動き出した。そしてチョロ松と私の使命はもちろん劇場建設資金を稼ぐことであったが、横浜ドリームランド、奈良シルクロード博を中心に全国のお祭りイベントに出演し、夏休みの締めの仕事は前年に続き吉本興業の舞台に11日間出演させていただいた。しかも今回はリニューアルされたばかりのNGK(なんばグランド花月)である。吉本興業に所属する数千人の芸人といえども限られた芸人しかたてない狭き門である。まさしく笑いの殿堂でもあるNGKの舞台にチョロ松と立てたことは得がたい経験であったし光栄なことだと思っている。私にとって猿まわしは大学卒業までのお手伝いであったのだが、教育実習を終え、こうした経験を積み重ねる中で心境に変化が起きてきた。

 夏休みも終わりひと段落したところのこと、月に何度かの調教会がもたれた。東京事務所前の多摩川河川敷で、兄のT氏が指導役で東京在駐のメンバーが参加した。調教会ではチョロ松と私の関係性がテーマとなることが多かった。成猿でもあり、以前コンビを組んでいた調教師を辞めさせたチョロ松とどうつきあうかそれは私だけでなくみんなにとっても共有しなければならない大事な課題であった。学生でもある私にはそれまではチョロ松の芸を向上させていくというよりチョロ松の持っている芸を維持すればいいぐらいの考えしかなかったが、チョロ松と正面から向き合うようになった今では以前にも増してすごい勢いで私に歯を剥いてくるようになった。兄のT氏からは「歯を剥いてくることはお前をボスと認めてない。絶対服従させけじめをつけなければいけない」と指導を受けるが、調教会を重ねるごとに服従するどころかチョロ松の反抗はエスカレートした。チョロ松を力で抑え込もうとすれば力で跳ね返す。それこそ野生のプライドであり、それがないチョロ松では命さえながらえることはできない。とにかく目の前に厚い壁が立ちはだかったかのような苦しいときでもあったが、なんとかしたいと思うようになったことでようやく調教師としてのスタートラインについたのかもしれない。
 荒れ狂う成猿とつきあう難しさと真剣に向き合うようになったころに、「五郎、野性の猿を制御するのに暴力は駄目。調教師が目に見えない力を身に付けるしかないんじゃ。それは何か、しっかりチョロ松に教えてもらえ。」って義正親父によく言われた。見えない力とは何でどうすれば身につくのか。チョロ松に服従を求める前に自己の非力によりきびしく対決していかなくてはならないと親父は言いたかったに違いない。

 阿蘇猿まわし劇場のオープンは舞台を支えるメンバーの数の確保と芸のレベルの向上が急がれる課題であった。親父の中では大学卒業後私が本格的に調教師としての道を歩むだろうと確信していた。さらに朗報だったのは2月に入門して半年しかたっていないDと小猿の勘平が順調に育っていること。周防猿まわしの会においては最も重要視される礼儀作法・立ち居振る舞いといった基本芸は当然のこと、輪抜け、竹馬、八艘飛びといった猿まわし十八番芸まで習得した。Dさんは、明るく人前でも物怖じしない舞台向きのキャラクターで、入門当時は兄のT氏が将来性をかい、テレビ番組にも紹介して、一番弟子として厚遇するようになっていた。それで、勘違いするDさんでないことは後に、T氏が周防さるまわしの会から強引に独立活動を行った際にも、義正会長との約束を忘れず決断、行動したことで明らかである。そういうドラマがあろうなどとはこの時は思いもしなかったし、私としては入門当時のDさんがどこを向いていようが関心がないというか、チョロ松と自分のことで精一杯だった。ただ、様々な重圧の中で会を動かしていた義正親父が「周防猿まわしの会が21世紀へ飛躍するための主役が増えた。」と喜んでいたことがうれしかった。