第十六話 ススキ

 都内の金融機関から、背広を着た紳士達数人が阿蘇を訪問してくださった。常務取締役という名刺をもたれた方が視察のリーダーであり、融資するかどうかの最終判断をされるのだ。進出の前提として、土地は買収、そして自前の劇場を建設することが親父の基本的な考えだ。初期投資に膨大な資金が必要になるし、途中で事業が困難だからと簡単に放棄することもできない。後ろは谷底、前に進むしかない。それが親父流の覚悟の見せ方である。初期の周防猿まわしの会にとってのるかそるかの大事業であることは間違いない。投資額は数億円、見たことも触ったこともない大きな金額である。予定地を丹念に紹介し事業を説明した。こんこんと湧く麗岳湖周辺の美しさ、周囲の落ち着いた地勢についても建設予定地として最適であること、何よりも「阿蘇五岳」(阿蘇山の別称)に登っていく赤水登山道の脇にあり、観光客が高い割合で側を通過するという最高の条件を備えていた。そして、常務さんがぽろっと親父に話をしはじめた。「村崎さん、私はこの阿蘇に自生しているススキが大好きなんです。ススキが残る自然を大事にしたいと思っているのですよ。この阿蘇にはススキがいっぱいですね。枯れススキも最高に魅力的です。どうかこのススキが阿蘇の観光資源として大事に継承されるように村崎さん達も頑張ってください。」常務さんは終始にこやかで短い阿蘇視察を惜しむように楽しまれて帰郷された。親父からこの時の話を聞くたびに、高度成長という名の下に日本各地が開発され、自然や郷土の芸能が簡単に消滅していく現状を憂える方がいらっしゃるのだと感じた、雄大な阿蘇の自然を象徴するススキとともに阿蘇猿まわし劇場実現が加速していくこととなった。ふりかえってみると当時日本は、高度成長時代の最終局面にさしかかり、金融機関としても有望な融資先を探していた。

 私が21歳の時に都内のあるお店で知り合った友人がいる。彼の仕事は不動産業で私とはまったく異なった仕事だがお互いのために本気で本音を言いあえる25年来の友人となった。今から12年ほど前に彼の勤める不動産会社の会長と会食する機会に恵まれた。会長といっても私の友人すら影を踏めない特別の存在感をお持ちの方だったのです。数ある不動産会社の中でも間違いなくトップクラスの成功者でした。 初対面のその席でさすがに緊張してしまいかなりのお酒が入ってしまった上に無礼講の雰囲気の中で空気も読めず、深い考えもなく村崎義正の話しになってしまったのです。挙句の果てには不動産業界では成功者である会長に阿蘇の劇場を建てたときの苦労話を延々と一時間に渡って話をしてしまい、会長は黙って聞いてくれ、「五郎ちゃん感動したよ、お前の親父は本当にすごい人だ。確かに当時のバブルという時代を考えれば金融機関としてはお金を貸すところをさがしている。しかし将来あるのかすらわからない猿まわしごときに簡単に億単位のお金を貸せるものではない。結局のところは、人対人なんだ。お前たちも今の関係を大事にしろよ」と力強く握手してくださいました。言葉の通り、その後も垣根のない付き合いをしてくださり、12年経った今でも本当にいいお付き合いをさせていただいています。初対面でハラハラしながら話を聞いていた友人が、ぶっしん!(私の仇名)にも親父さんにも感心するよ。といまでもその話に及ぶたびに冷や汗をかきながら話しが弾む。

 阿蘇の土地の買収に動く、そして劇場の設計、駐車場計画と着工準備へ向け順調に進んでいった。親父夫婦は本社を守らなければいけないこともあり阿蘇の責任者として次男夫婦を阿蘇に赴任させた。兄貴夫婦は山口県光市にある周防猿まわしの会の本社の隣に家を新築したばかりではあったが迷うことなく親父の任命を受け、まったく土地勘のない阿蘇へ赴任することを決意した。長年親父の側で仕事をしてきた兄貴は親父の苦労を一番理解し協力を惜しまない兄であった。親父の勝負に自分も家族も身を投じるさすが兄貴(次男)、この男気のある生き方が、阿蘇の皆様にも伝わり意気投合し阿蘇猿まわし劇場の成功に大役を果たすこととなった。兄貴のこの決断なくしては阿蘇の成功はなかったといっていい。そして兄貴を兄弟同様に思い、お付き合いくださったのが塚元隆議員の長男でもある同世代の塚元秀典氏だった。この阿蘇の地においては塚元隆議員同様に人望も厚く全幅の信頼を得られている人物であり地元との大切なパイプ役も担っていただくことにもなる。そしてさらに心強かったのが兄貴の片腕になる久保幸浩(現阿蘇猿まわし劇場事務長)という人物を塚元隆議員より紹介を受けたことではないかと思う。国鉄の人員削減が吹き荒れ去就を考えあぐねておられたが阿蘇さるまわし劇場に加わっていただけることとなった。実直で人を裏切らない。しかもこれほどの人物どこを捜しても見つからない素晴らしい参謀役であった。その後現在まで23年間にわたり阿蘇猿まわし劇場のために身を粉にして頑張ってくださっている功労者である。後に入社される奥様の久保主任(役名兼仇名)は若くて美しいだけでなく夫や家族を支え久保氏とは違った多彩な才能の持ち主であり、未知数の阿蘇猿まわし劇場の戦闘能力が高まってゆく。

 チョロ松と私の役割としては当時周防猿まわしの会の稼ぎ頭であるためこれから劇場完成までにどれだけの費用がかかるかわからない、とにかく親父からは「稼げるだけ稼いできてくれ」と全国各地のお祭りイベントに飛びまわった。全国各地を飛びまわっていて日銭を稼いで阿蘇に送金するそれが役目だった。投資額も大きいがそれに利息も当時はびっくりするほど高かった。10年で貯金が二倍にもなるバブル期だった。周防猿まわしの会のメンバーの団結力、そして塚元家や阿蘇の地元の皆様の支えや協力もあり、1988年6月8日、阿蘇進出計画決定から4ヶ月足らずで「阿蘇猿まわし劇場・起工式」にまでこぎつけることができた。一言で4ヶ月というと簡単にことが進んだと思われがちだが親父の劇場にかける情熱はとにかく半端ではなかった。これだけの計画は親父の情熱だけで当然作れるものではないが何故か人は親父に巻き込まれていった。親父が動けば人も動くというように不思議な魅力を持っている、それが村崎義正だった。起工式当日は周防猿まわしの会の全コンビも阿蘇に集結し地元の園児達を中心にたくさんの方に猿まわしの芸を楽しんでもらい魅力を知っていただけるきっかけにもなった。ここから「笑い」と「感動」の阿蘇猿まわし劇場の建設が加速していくことになる。成功か失敗か考える余裕も迷いもなく進んでゆく。私は4月に大学4年生となり、最後の学生生活がはじまるとともに決断の日が近づこうとしていた。 決断は自分がするけれどやはり親父抜きでは考えれない決断、本話の最後にその親父とのエピソードを紹介させていただいて終わりにさせていただきます。

 村崎義正という人は豪快でありながら繊細な一面も持ちつつもとにかく愉快な人であったと思う。サービス精神も旺盛で色んな場面であきさせない親父であった。チョロ松がウォークマンでブレークした年末の話だが、親父から東京事務所の私に電話が入った。「今年は、チョロ松と五郎は本当によく頑張ってくれ た。特別ボーナスをだしちゃらんといけんと思うちょる。郵便で送ったから楽しみにしちょってくれ」。何ともテンションのあがる嬉しい連絡。数日後、そのボーナスが東京事務所に書留で送られてきた。当然、現金だろう、幾らかと思い郵便を開けてみると中には箱のような物がはいっていた。「ウォークマン・・・?」、それはSONYさんがCM大賞最優秀スポット賞に輝いた記念に製作した刻印入りのウォークマンで周防猿まわしの会村崎義正会長に記念品として贈られてきた大変貴重な三台のうちの一台であった。「何故ウォークマンなの?」その後聞くことも出来ず結局私に送られた意味は聞かずじまいになってしまったが今でも箱を開けた瞬間のどう反応するべきか迷っていた自分の気持ちを思い出すと笑ってしまうんです。 そんな愉快な親父であり、知らないうちにたくさんのことを学び、猿まわし人生の土台を造ってくれた親父、しかし、親父と共に生きることができる残された時間は急ぎ足で過ぎて行った。