第十四話 秘められた構想

 1988年、新しい年を迎えてもチョロ松人気は衰えることはなく元旦から西へ東へ、営業車でチョロ松とふたりで各地へ飛びまわった。元旦から5日までは都内近辺、6日からは大阪市、堺市、高石市のパーティの仕事にまわり、正月最後は京都高島屋のイベント。高島屋は年末に当時周防猿まわしの会を代表するコンビ、兄のT氏も出演したくさんのお客様が集まったということもありチョロ松でどれだけの人が集まるんだろうか不安もあった。1月10日(日)当日、蓋を開けてみると当時トップアイドルだった「光GENJI」以来の人を集めたらしい。スペースが限られる屋上でのイベントだったが、2000人近くは入れただろうか、会場はいっぱいになり5階から屋上にかけて長蛇の列ができた。予定は一日2回(11時と14時だったと思う)のショーだったが、急遽3回のステージに変わり、用意していた写真集も1回目のステージで完売になるほどの大盛況だった。

 多忙な正月公演を無事に終えたかと思えば翌日からは大学の後期試験が始まり本当に慌ただしい日々の連続、けれどうれしいこともある。人生初の海外旅行が待っていた。会の福利厚生の一環として海外旅行に行くことが決まった。
 会長である親父はとにかく旅行が好きで、私は幼少の頃から日本各地の名所によく連れてってもらった。今でも憶えているのは、小学校6年生の時だったか、春休みが明日で終わるという日の前日、「明日、金比羅さま(香川県金比羅)へ行くぞ!」と言い出した。お袋や兄貴達は親父の突然の発言に迷惑そうだったが、私だけは親父と旅をするのは楽しくて「やったぁー!」と思った。今では日帰り可能な所だが、その頃は、瀬戸大橋は無く、松山からの高速道路もない。早朝のフェリーで松山まで行き、何時間もかけて金比羅さんまで車で走る。現地に到着するまでに疲れ果てた上に、本堂までの785段もある階段を必死に登った。最後に旅行の目的の一つだった讃岐うどんの店に寄る。頼んだ讃岐うどんがイメージと違い一同がっかりした。こんな風に村崎義正のぶっつけ旅が行われた。今思えば少し押し付けな旅でもあったが、サービス精神たっぷりの親父との旅行は本当に楽しかった。
 しかも今回は海外旅行。実は飛行機に乗るのも初めてだった。お猿さん達の世話があり誰かが残らなくてはいけないが、その役はJ君が引き受けてくれた。J君は海外旅行より、本社(山口)に残りお猿さんの面倒を見ながら、夜は田舎の仲間と遊ぶ方が楽しいのだ。チョロ松その他お猿さん達のお蔭で人生初の海外旅行にも行け、本当に満喫できた。チョロ松も仲間といる時間を楽しんだようだ。
 この海外旅行出発当日2月1日に入門したのがD君である。私の従兄弟にあたり、東京に出て理髪師の修業をしていたが、再三の引き抜き工作に負けて入門してきた。モテモテの明るい若者で人当たりも良くどの分野の仕事でも頭角を現しそうな感じがする。もちろん猿まわしにはうってつけのキャラクター、期待を集めての入門だった。そして、初の仕事が海外旅行という甘い汁を吸わされた。芸名はDとなり以後20年以上にわたり周防猿まわしの会の屋台骨を守り続け苦労を背負わされることになる。兄のT氏を始め周防猿まわしの会から多くのメンバーが去っていったが、後々、D君、J君、そして私の三人で会を支えていくことになろうとは思いもしなかった。

 サイパン旅行を終え、福岡空港へ到着した直後親父がまた突拍子もないことを言い出した。「折角だから阿蘇山に行こう」。暖かいサイパンに行ったのに何故寒い阿蘇に行くんだろう。親父の性格から考えるとたぶん楽しいサイパン旅行が終わりこの雰囲気を終わらせたくなかったのかなと思っていたが今考えてみると親父はまだ誰にも語っていない構想を秘めていたのだ。
 実は周防猿まわしの会復活後、悲願であった猿まわし専用の小劇場を故郷山口県光市に作った。観光地とは言い難い地であったが、たくさんの来場者に恵まれた。大道芸、放浪芸といわれた猿まわし、芸の継承には安定した基盤を確立しなければならない。小劇場を成功させてくださったお客様が教えてくださったのは観光地への進出。親父は会の次の目標として九州を代表する阿蘇への進出を一人目論んでいたのだ。サイパンで長年の疲れを癒しながら視線ははるか先の阿蘇に向かっていた。

 「折角だから阿蘇山に行こう。」まだ誰も知らないドラマが始まろうとしていた。